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Channel: メンバー紹介 –株式会社サイカ
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“どうしようもない悲しみ”をこの世からなくしたい

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私事ではあるが、昨年の半年間、新規事業の立ち上げに参画した。やるべきことを決め、実行出来るチームを組み、「さあ」という所で頓挫した。スキルは揃っていたはずなのに、だ。だから私はサイカのチームはどのようにして動いているのか非常に興味があった。何がメンバーをチームを動かすのか。
まずは、サイカのCEOである平尾さんに話を伺った。印象に残っているのは、平尾さんを突き動かす原動力の強さ。経歴だけを見ると異色と感じるが、根底には1つの想いがあった。そして、バンドのような多様性あるメンバーがそろったチームは彼を中心に動いている。統計分析ツールを作っているのではなく、「どうしようもない悲しみ」を無くすため、全ての人が才能開花をした幸せな状態でいるために。何が足りなかったか。1年前の自分は気づかなかったことを聞かせてもらった気がした。

「父の会社が倒産した」から始まった人生のスタートライン

岩崎 裕司

今日はその立ち上げた思いの部分を聞きたいなと思っております。まずは、どういう経緯でサイカを起業されたのでしょうか。


平尾 喜昭

そもそもの想いでいうと13歳、中学1年生までさかのぼります。僕の父が務めていた会社が倒産たんですね。一介の課長だったんですけど、会社の倒産をコントロールできるわけもなくて、倒産することを知ったのが12時間前という、まさにどうしようもできない不幸でした。そして倒産後は本当に悲惨でした。ここでは語り切れない不幸が起きて、そのなかで疲れ果てていく父を見たときに、「この世には”どうしようもない悲しみ”というものがあるんだな」と感じたんです。それで、その”どうしようもない悲しみ”をどうにかしたいという漠然とした思いが中学の時に芽生えて、それが僕の人生の目標になったんです。

岩崎 裕司

父親のどうしようもない悲しみを肌で感じ、それを解決しようと。


平尾 喜昭

この会社を経営するまではずっとバンドをやってました。”どうしようもない悲しみ”をなくすためにできることを考えたときに、僕自身が音楽に悲しみを救われたりとか前向きになれたり、助けてもらった経験があったので、音楽で人の”どうしようもない悲しみ”をなくすことができるんじゃないかと思い、バンドマンを志すようになりました。
高校卒業してからプロを目指すようになり、音楽で食べていこうとするわけなんですけど、そこからサイカを創業するまでにさまざまなきっかけがありました。
まず、22歳のときに大学のゼミに入るんですけど、きっかけは音楽だったんです。音楽周りのマネジメントを学ぶためでした。当時ひょんなきっかけから韓国でライブができるようになったんです。そこで、韓国人と日本人のオーディエンスの違いを強烈に感じました。
たとえば韓国のオーディエンスって、知らないバンドが出てくると、「なんだなんだ」と前に来てワーワー騒ぐんですね。逆に日本のオーディエンスは、一回目のライブでは後ろの方で腕を組んで、まずは盛り上がらずに観察をする。だからと言って二回目以降のライブに来ないかと言うとそうではなくて、意外に二回目以降のライブも来てくれて成長の過程自体を楽しんでくれたりする。逆に、韓国のオーディエンスは一回目のライブ勝負で、初見がつまらないと二度とライブに来てくれない。こんなに違うと、目の前にいる韓国のオーディエンスについて、背景の違いをしっかり理解しないと、彼らが感動する音楽は作れないなと強く感じました。何が違うんだろうと考えた結果、一番の違いは政治経済だと気付きました。
そこで経済学を学ぶゼミに入りました。僕の所属していたゼミではストイックに経済政策を作らせるんですね。机上の政策ではなく、自分の考えた政策が経済に及ぼす影響を検証するところまで求められました。つまり、定量的な証明ができないとダメだったんですね。それがまさに統計分析との出会いでした。

岩崎 裕司

大学時代にサイカの武器である統計分析を学ぶんですね。


平尾 喜昭

ちゃんと数字で明らかにしなくてはいけない世界に触れて思い起こしたのは、父の会社が倒産するという原体験でした。父の倒産した会社は、昭和を代表する名経営者が作った会社だったんですね。彼の経験や勘にみんなが従って成功したわけです。逆に、彼の経験や勘に従い過ぎて総崩れした、そういった会社だった。もし彼の手元に”超定量的な世界”があったら、彼の経験や勘は正しく生かされて、会社もつぶれずに済んだのではないか、とゼミで学んだ時に思ったんです。

岩崎 裕司

“どうしようもない悲しみ”が統計分析によって解決出来たかもしれないと感じたわけですね。


平尾 喜昭

0.01%の可能性かもしれませんが、防ぐことができたかもしれない、少なくとも父の会社はそれにあたるんじゃないかと思いました。そこで点と点がつながり、統計分析をビジネス業界一般に浸透させることを自分の道にしようと「サイカ」を起業しました。もちろん、10年以上音楽で生きていこうと思っていた自分としては、本当に悩みぬいたうえでの決断でしたが、その分、強い決意を持った意思決定でした。

父の会社を救うことが、すべてのビジネスパーソンを救うことにつながっているんじゃないか

岩崎 裕司

統計の世界といっても、起業以外にも道はありますよね?


平尾 喜昭

それは、めちゃめちゃシンプルです。父親の会社が倒産したときに「この世に安定なんかない」と心から感じたので、勤めるという選択はありませんでした。本当の安定を手にするためには、自分の腕を磨くしかないと思ったんです。音楽を本気で志していた理由も同じです。また、データ分析や統計分析の活用されてる世界が金融や政治というハイエンドな業界に偏っていたということも、起業を選んだきっかけです。でも、そもそも僕の目的は「どうしようもない悲しみ」をなくす、父のような会社を救うというのがスタートなので、一般の企業、ビジネスパーソンが触れられる状態じゃなきゃダメだし、そういう会社はほぼなかったので、作るしかないと思いました。

岩崎 裕司

悲しみっていうのがハイエンドの世界のものだけじゃない、みんなにあるっていうところですよね。その「どうしようもない悲しみ」というのは統計で解決できるんじゃないかと大学で学んだわけですね。


平尾 喜昭

はい。大学で学んで、その提供する先としては、ひろくあまねくにしたかったから、どこかに属して一部のために貢献するのではなく、みんなのために貢献したいという場を作りたいと思い起業したっていうのがあります。

すべてのデバイスに”データ分析”という部品を提供をすること

岩崎 裕司

そのような想いがあって起業されたのですね。初めからプロダクトの提供を考えたのでしょうか?


平尾 喜昭

そのサイカも最初はコンサルティングで立ち上がったんです。僕たちがプロ向けの統計分析ツールを使えたので、クライアントから分析ニーズをヒアリングしてデータを頂戴して分析結果をレポートするという、分析コンサルをしていました。ただ1年弱走ってみて気づいたのが、外部者からのレポートだと、クライアントの意思決定に繋がらないんですよね。当たり前ですが、統計分析には「仮説」と、それを下支えする「問題意識」が必要不可欠です。だけど、僕たちがクライアント以上にクライアント企業の仮説や問題意識を持つことは難しくて、結局僕たちからのレポートは社内報告用の“一つの見方”程度にとどまってしまう。要は、アクションにまで繋がる納得感を提供し切れなかったんです。そんな状況を目の当たりにしてきたなかで、このまま外部者として分析レポーティングを繰り返すよりも、仮説や問題意識を持っているビジネスパーソン自身が扱える分析ツールを開発して提供した方が本質的に価値のあるサービスなんじゃないか、と思うようになりました。そのような経緯があり、2013年の10月、「アデリー」という「誰でも簡単に統計分析ができる」というコンセプトのWEBアプリケーションをリリースしました。それが統計分析のコンサルからプロダクトを作る会社になった、いわゆるサイカの第二創業でした。

岩崎 裕司

ステージがコンサル業からITになる。プロダクトを作って使ってもらうスタイルに移行したんですね。


平尾 喜昭

そして実は今、プロダクト提供企業としてさらに進化しようとしています。先ほど話した誰でも簡単に統計分析ができる「アデリー」というサービスですが、リリースから2年弱提供していたなか で、さらに見えてくる課題がありました。結局、アデリーを活用できていたのって、問題意識が強くて仮説がある方々だけなんですね。さらに言うと、仮説設計に向き合うことが業務である、という人でないと使いこなせていませんでした。ただ、そういう仕事にアサインされている人って、大きな企業でもほんの一部でしかない。結局、ほとんどの方々は企画職ではなくて、より顧客や消費者に近い視点で営業したり、マーケティングを実行しなくてはいけない。つまり、彼らをサポート出来ないと、本当の意味ではビジネスの業界をデータ分析でハッピーにできない、“どうしようもない悲しみ”は解決できないと考えるようになったんです。
そんな問題意識のもと、今のサイカは、営業やマーケティングというような“実業務に寄り添ったサービス”を開発する「業務ニーズ特化型」の分析アプリベンダーとして生まれ変わろうとしています。具体的には、営業マンの営業行動を分析できるアプリと、オンライン・オフラインプロモーションの効果をリアルタイムで分析できるアプリを開発しています。
ビジネス現場にデータ分析の価値を届けてこそ、“すべてのデータに示唆を届ける”という僕たちのビジョンは達成されると信じています。

岩崎 裕司

IT化が進み、センサーが増えているというところでしょうか。


平尾 喜昭

その通りで、センサー分データがある中で、そのすべてのデータに示唆を届けるということは、そのデバイスを提供している会社のネジとして、サイカの分析ツールがデバイスの部品として使われる世界を目指せたらいいなというのが、最終的な夢です。「全てのデータに示唆を届ける」というのが可能になるのではないか。「どうしようもない悲しみ」を統計分析によって減らせるのではないかと思っています。

誰よりもサイカを語る

岩崎 裕司

サイカの成功に向けて、CEOとしてのミッションは何なのでしょうか。


平尾 喜昭

社内に対してと、社外に対してがあると思います。社外に対しては、サイカの独自の魅力を誰よりも深く伝えることができる“語り部”になることが僕の仕事です。社内に対しては、迷ったときに戻ってこれる“軸”でありたいなと思っています。双方共に言えるのは、代表として、誰よりもサイカの夢を言葉にして、そこに向かって引っ張っていく役割を担っているんだと思っています。

才能開花とは

岩崎 裕司

サイカという社名は、「才能開花」からきているということですが、平尾さんにとって才能開花とはどういう状態なんでしょうか。


平尾 喜昭

才能開花って、だれかに勝つとか負かすとか、そういう話じゃないと思っていて、“もうやることは全部やり切った、あとは自分の才能で勝負するだけだ”と思い切れる状態なんじゃないかな、と思っています。さらに言えば、あとは才能だけだと言い切れるほどに情報を集め切って、自分を磨きぬいていくプロセス自体が、才能開花だと思っています。そして、その先には納得感や誇りに満ちた本当の意味での幸せが待っていると信じています。
今思うと、そもそも僕の原体験である「どうしようもない悲しみを無くしたい」という願いが強く反映された「才能開花」の捉え方なのかもしれません。


岩崎 裕司

もうこれ以上ないという納得感のあるプロセスが重要だと。それが才能開花している状況ということですね。本日はありがとうございました。

取材を受けてみて

平尾 喜昭

今回の取材を経て、僕自身の“どうしようもない悲しみをなくしたい”という「原体験」から、才能開花というXICAの「ミッション」、そして、現行の「事業(ニーズ特化型の分析サービス開発)」に至るまで、真っすぐ芯が通っているのだと強く再実感しました。取材時にも答えましたが、少しずつサイカという組織が大きくなってきている今、誰よりもこの芯をブレないものにして、かつ、より先の未来に繋げていくべく、しっかりと自分の言葉で社内外に発信し続けなければならないと覚悟を新たにしました。

インタビューされた人


インタビューした人


多様性のある働き方ができる組織を目指す

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サイカのCOOを務める山田裕嗣さん。2013年5月末日、代表取締役COOに就任し、同日に父親になる。それまでは「自分のできるを増やすために生きてきた」という。
インタビューをして印象に残っているのは、彼の言葉を通して感じる「自身ではない誰か」。いま、彼の頭をいっぱいにしているのは会社のこと、家族のこと、関わってきたすべての人のこと。
転機や変化により、自分を深いところで知り、生きやすくなったという自身の経験があったからこそ、人に与えられる転機、変化の重要性を強く思う。動的な才能開花を目指し、今日も関わるメンバーの思いを見つめる。

色んな変化を提供されて今がある

ちゃんとしている自分を守らなくてもいいんだ

岩崎 裕司

山田さんの人生に大きな影響のあった出来事はなんでしょうか?


山田 裕嗣

5歳の頃からアメリカに4年ほど住んでいた経験があるんですが、帰国した後は「アメリカから来た転校生」というラベリングをされてからかわれていたんです。それが、中学に入って学力テストで1番を取ったことで、「何してもできる子だよね」っていう新しいラベルを貼られたことがきっかけで、「ちゃんとしている自分」でいることが評価を受けると思うようになったんです。そこから、高校・大学、社会人になっていろんな人と出会うなかで、自分が変わっていったんですが、中学のときの考えがとても強くて、それを壊すのに時間がかかりました。

岩崎 裕司

環境が変わって色んな人と話していくなかでそのラベルを壊していったんですね。


山田 裕嗣

高校時代は同級生たちと「人って何を考えるんだろう」と変な問いを立てて議論してたりしていました。そういう友達を周りに持ったときに、人の心理を考えるのが楽しいなと思い、大学は心理学を専攻しました。その延長で、社会人では大企業や組織の人がどう変われるかを考えながらソリューションを提供する仕事をしていていました。過去の自分はどうだったんだと考え始めたのはここ五年とかだと思います。

岩崎 裕司

人の心理を考えることが楽しいと続けてきて、自分のことを改めて考えるという転機みたいなところはあったんでしょうか。


山田 裕嗣

ひとつの大きな転機は、組織とは関係ないところでできた仲間たちと開いている勉強会で合宿を行ったことです。その合宿で、自分たちはどういう人生を歩んできて、自分は何が大事でということをディスカッションし、合宿の最後に“なりたい自分”を発表し合ったんです。合宿の1日目の夜に半日かけてやったことを発表する時間があって、アウトプットするためにもちろん準備していたんですけれど、自分の目の前で発表していた方が自分が超認めたくない嫌なことをしゃべっていて、その場で影響をうけてしまい、準備していたものをまったく使わずその場で思ったことだけを喋るということをしたくなったんですね。半日分の成果を無視して、その瞬間に出てきた想いは「人から必要とされたいんだ」ということでした。裏を返せば、必要とされなくなるのが怖いんです。それを初めて周りに言えたことで、自分を守らなくたっていいんだと思えました。それまでは、「評価される自分はちゃんとしている自分」という想いがあったので。

岩崎 裕司

最初に入った会社からサイカにジョインするまでに一度転職されたと伺ったのですが、どのタイミングがきっかけだったのでしょうか。


山田 裕嗣

もうひとつ転機になったのは、社会人4年目のときに訪れた母の死でした。そのときに自分ってなんだろうとかいろいろ考えたんです。それで、好きなことやろうと思ったときに、会社以外の人たちとの付き合いを始めて、アクティブに動き始めて、仕事も違うことやりたいなと思いがあり、GREEに転職しました。

色んな変化を提供されて今がある

岩崎 裕司

そうなんですね。転職先としてGREEを選んだ決め手はなんだったのでしょうか。


山田 裕嗣

新卒で入った会社では組織作りを“外から”支援していたんです。でも結局、自分で何もしてないので、自分の専門性とか付かないよなと感じてしまったんです。当時のGREEは採用に力を入れていた時期だったので、内部から組織作りをするにはすごくいい経験ができるんじゃないかと思ったんです。

岩崎 裕司

その後、サイカへはどういうタイミングで参画したんでしょうか。


山田 裕嗣

代表の平尾とはサイカを創業するだいぶ前から、「創業したいんです」と相談を受けていたんです。最初の会社で新規事業に関わっていたので、たまに飲みながらアドバイスをしていました。それから1年ほど“外部の人”として手伝っていたのですが、このタイミングで手伝わなかったらこの会社本当に大丈夫かなと思ったのと、人生のこのタイミングでこういう環境に飛び込まなかったらもうやらないだろうなと思ったんです。10年来の付き合いというのもありましたし、組織内に入って一緒に手伝おうかと、12年11月にサイカに入りました。

父になった日

岩崎 裕司

サイカにジョインしてから4年が経ち、やるべきこと、役割、立場は変わっていると思うのですが、そのなかで自分自身のやりたいことはどう変化していったのでしょうか。


山田 裕嗣

サイカに入るまでの仕事に対するモチベーションって、「自分ができることを増やしたい」とか「自分の好奇心を満たしたい」とか、自分がどう変わるんだろうと仕事をしていました。サイカに入ると決めたときも、このタイミングとこの環境で、業務全般をすべてやらなくてはいけないというところに行ったら「自分のできること」が増えるだろうと。自分のキャリアのなかでそれは良いことだと決められたので飛び込めたのかなと思っています。

岩崎 裕司

サイカに入ってからはどういう風に変化していったのでしょうか。


山田 裕嗣

サイカ入って半年ほど経ってから、自分のキャリアを考えることって意味ないんだなと当たり前のように気づきました。会社の全責任を負っている立場である以上、自分の将来とか考えていてもしょうがないし、そこで自分のできることが増えることを考えていても会社の成長には1ミリもつながらない。そうじゃなくて、一緒に仕事してくれている人たちもいるし、出資をしてくれている人たちもいるなかで、成功させることっていうのが1番重要なんだと。そういった環境にいるうちに自分がどう変わるなんてどうでもいいなって気づいたのは1個目の変化でした。そこから役割として、取締役という人が何をすべきか、会社がどうあるべきなんだろうというものだけを物凄く考えるようになったというのが、入ってから1年後ぐらいでした。

岩崎 裕司

サイカに入って1年後には、「自分のできる」より「会社のできる」にフォーカスを当てたと。


山田 裕嗣

会社の成長のために、自分の果たす役割ってなんだろうっていう逆算からしか考えなくなりました。

岩崎 裕司

自分の好奇心ではなく、ゴールから逆算していく。それはきっかけがあったのでしょうか。


山田 裕嗣

会社の代表になったんですよ。2013年の5月29日なんですけど、実はその日に娘が生まれたんです。父親になったのと、会社の代表になったのが同じ日というのがきっかけで、組織とか家族のために自分が何かをする人間なんだという自覚をするようになっていて、「家族のために何かをする自分と、会社のために何かをする自分って結構一緒じゃん」という思いができました。

色んな変化を提供されて今がある

人が変化できる「組織モデル」を考える

岩崎 裕司

山田さんの今やりたいことってなんでしょうか?


山田 裕嗣

自分のことをより深く知れたことで、フッと楽になったり生きやすくなったというのが体感としてあるので、人が変化できる支援をしたいと思っています。職責として個人の働き方とかをセンシティブに考えているんですけど、問題意識であるのが「企業に所属するとなった瞬間に、何で変化できなくなるんだろう」ということです。

岩崎 裕司

「組織の中だと変わることができない」というのは山田さんの経験から感じてたことなんでしょうか。


山田 裕嗣

自分自身で、そういう組織を体験したことはないですね。少なくとも会社以外の仲間と関わるなかで変われたとか、転職で多少は見る世界が変わったっていうところを受けて僕は変われたと思っているので、同じところに居続けて変化できるってリアリティがないんです。

岩崎 裕司

会社に居ながらにして、山田さんが経験したような仲間とのかかわりで今まで苦しかった部分がフッと軽くなるとか、そういうことができる組織を実現したいと。


山田 裕嗣

そもそも企業がそんなことを扱えると思っていなかった、というのが正直なところです。もちろん、「仲の良い同僚」とか「同期」とか、組織を離れた個人対個人の関係で色んな話がしやすい、というのはありました。ただ、それが組織の文化だったり、日常の仕事だったり、というレベルで実現している、というのはリアリティが持てていないですね。

岩崎 裕司

平尾さんのインタビューでも「人」というフレーズが多く出てきて、サイカという組織のメンバーは人に対する思いって強いのかなと感じます。山田さんの考える「サイカっぽさ」ってどういうことでしょうかね。


山田 裕嗣

人に期待できることじゃないですかね。「もっと良くなるよ」と人に対して言えるし頼れること。こういう部分ってロジカルに整理しきれないんですよね。でもそれを過剰なまでに真面目に扱えるっていうのがサイカっぽいなと思います。

色んな変化を提供されて今がある

個人の思いと多様な働き方

岩崎 裕司

サイカで今後チャレンジしたいことはなんでしょうか?


山田 裕嗣

人の意志ありきで仕事ができる組織になりたいなというのがあります。株式会社なので成長はしなくちゃいけないんですけど、「組織の成長」と「人の意志を大切にする」というのは対立概念じゃないと思っていて、そこが両立できる組織を目指したいです。

岩崎 裕司

それを実行するにあったての仕掛け、仕組みとかっていうのはありますか。そこがどの企業も悩んでる部分だと思うんですけど。


山田 裕嗣

彼は何したいんだろう、どういう仕事をすれば彼の将来にとって意義があるんだろう、と思い描く努力はしています。例えば、あるメンバーが何かやりたいことがあって、今やっている仕事を3ヶ月離れたいとします。そのときに3ヶ月穴を埋めてくれる他のメンバーや外部のパートナーがいればいい。それくらい働き方が多様になっている環境だと、個人の想いに向き合えるのかなと。長い目で見たとき幸せになると考えています。そういう意味でも、働き方の多様性は、いわゆる「正社員」という無期限の雇用契約にこだわらなくて良いようにしていきたいですね。


岩崎 裕司

今後は個人の思いをベースにメンバーのやりたいことができる、雇用のあり方や働き方の多様性を整える環境を作っていきたいということですね。

才能開花とは

岩崎 裕司

山田さんにとって才能開花とはどういう状態で、才能開花ってどのようなものかとういうのをお聞きしたいなと思います。


山田 裕嗣

ひとつは、自分自身の生き方の納得感が必要だなと思っています。僕のなかでもまだまとまりきれてはいないんですけど…。個人の想いを大切にすることは重要なんですが、それだけではダメだなと感じています。結局は社会につながらないと、自己満足で終わってしまう。自分の想いによって世の中にプラスになることができるようになって初めて意味があるのかなと考えています。だからといって、社会的に評価されなければならないというわけではないんです。自分のWHYと組織のWHYが繋がって動いていけることかなと。

岩崎 裕司

その人の個人の自覚や納得感といった内面の部分でもあり、社会への影響といった対外な面もあると。


山田 裕嗣

開花って瞬間的なものではなくて、その過程全体だなと思います。僕のイメージでは動的なんですよね。スナップショットではない。例えば、イチローの才能開花って200何本安打を達成した瞬間ではないですよね。続けることで結果は出るかもしれないし、出ないかもしれないけれど、そこに自分なりに意味を持って向かっていることがすごく重要なのかなと思っています。


岩崎 裕司

山田さんにとって才能開花は「動的なもの」で、向かっている自分自身への納得感が重要あると。そして、社会へのインパクトにつながるということですね。本日はありがとうございました。

取材を受けてみて

山田 裕嗣

サイカっぽさって何?と突然聞かれたときに、「人に期待できること」というのが咄嗟に口から出てきた、というのが自分自身では印象に残りました。その言葉はきっと温かくもあり、厳しくもあります。それを自分自身が誰よりも体現できるようになりたいなと改めて思います。

インタビューされた人


インタビューした人

課題を解決できれば、テクノロジーを使わなくたっていい

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プロダクトディビジョンマネージャーを務める和田洋樹さん。サイカの武器である「統計プロダクト」を生み出すチームを統括している。プロダクトを管理するリーダーが1番に考えているのはプロダクトではなく、作り出すチームそのもの。自身の立場は「エンジニアの応援団」だと言う。
テクノロジーと出会い、ゲーム感覚で課題を解決することに面白さを感じた少年時代を経て、「エンジニアの応援団」は従事するチームメンバーを支えるために何が必要か、がむしゃらに考えていた。

課題を解決できれば、テクノロジーを使わなくたっていい

すべてのものは人の手で作られている

岩崎 裕司

いまの和田さんを形作ってる人生のきっかけを3つあげるとしたらなんでしょうか。


和田 洋樹

ひとつは、幼稚園のときに父親の実家から一軒家に引っ越すんですね。それで、何を思ったか外壁などの工事をすべて父親がやったんです。そのときに「すべてのものは人の手で作っているんだ」という感覚を覚えたことですかね。小学校のときに父が会社からパソコンをもらってきて、プログラミングをしたりして遊んでいました。

岩崎 裕司

当時、すでにプログラミングができたんですか?


和田 洋樹

はじめて触ったコンピューターは、父が会社からもらってきたNECのPC-8001っていう日本でも初期の頃のパソコンで、黒い画面に緑の文字が出てくるっていう。円を描くにも、円を描くコマンドがなかったので、当時小学生だったんですけど、三角関数を使って360°を1度ずつずらしていってピクセルを打っていくみたいなことをやってました。あとは、小学校に上がってファミコンが買ってもらえないから、パソコンでゲームをつくるっていう発想に自然となっていったんだと思いますね。

岩崎 裕司

パソコンがあれば、ゲームは作れるっていう感覚は普通になっていたと。


和田 洋樹

いまにつながっているところで言うと、小学生の高学年のころJRのみどりの窓口の操作盤をなんとしてでも真似したくて、発券システムを自分のコンピューター上で再現していました。 もちろん発券はできないんですけど(笑) 自分でプログラミングをしないとアクションが起きなかった時代を体験しているので、高校時代にインターネットを触れたときには衝撃でしたね。自分でプログラミングをしなくても、クリック1つでデータが飛んでくるっていうのがとにかく衝撃で「なんだこれは」と。当時インターネットが使えるコンピューターって市内の図書館の本館にしかなくて、郊外に住んでいたので15kmくらい自転車を漕いでました。ただ、行っても大したものはなくて、今のようなグーグルとかヤフーとか何もないので、NTTディレクトリっていう検索サイトから企業サイトとか大学の研究成果の発表みたいな数少ないサイトを見て「すげえ!」と面白がってましたね。

岩崎 裕司

15kmも! すごい熱意です。父親の影響で、ほしいものは自分で作るということが身について、パソコンでゲームやシステムを作る少年時代だったんですね。


和田 洋樹

もうひとつは、母親にある映画を見せられたことがあって。2本立てで1本目が『ドラゴンボール』とかだったんですけど、2本目が『はだしのゲン』で。それがトラウマになってしまって。少し後になって公開された『となりのトトロ』も怯えながら見るみたいな……。

岩崎 裕司

トトロも怖くなるほどですか!映画自体が怖くなるくらいに、幼少期の戦争映画を見たことが強烈な体験だったんですね。


和田 洋樹

最近も夢に出てくるぐらい今でも強烈に覚えてますね。トトロでメイちゃんが風を受けるシーンも爆風のシーンに見えてしまって。だからこそ、なぜあれが起きたのかという部分を知ることが恐怖を克服することだと思って、戦争の資料とか読んでどんな現象でなぜ起こったのかを調べましたね。

岩崎 裕司

トラウマを克服するうえで物事の観察と原因の追究が身についたんでしょうか。


和田 洋樹

いまでも、そういう問題が発生したときにはまずその恐怖と向き合わなきくちゃならないと。だから国が公開している報告書とかも読んだりしていますね。『はだしのゲン』の恐怖にひたすら向き合ってたという経験はそういう部分につながっているのかもしれません。

岩崎 裕司

過去のトラウマと向き合う中で、まずその問題がどういうものなのかを分解していって小さいものから調べていくという「問題を解決する手法」を身につけていったと。


和田 洋樹

もう1つは、新卒で入社したシステム開発を請け負う会社にいたころだと思います。
この業界はどうしても残業も多く、つらいことも多かったので、そのときに「誰も頼れない」と1人で背負ってしまったんですね。頼りにしていた上司も先に退職してしまって、どのプロジェクトも基本的には炎上案件の火消しをするような仕事で、あまりそこで成功体験を得られなくて、しんどいと追い込まれていた時期だったんです。


和田 洋樹

あるときに会社を辞めようと思ったきっかけがあって、同じフロアで働いている人が亡くなったんですね。前日までは普通に仕事もしていたんですけど。そのとき、「もし自分がそうだったらどうなんだろうな」って思ったんです。正直、「今頑張れば将来報われる」と思って親も頼らず頑張ってきていたんですけど、「今ってすごく財産だな」と痛感しました。今をきちんと生きるためには、他者ときちんと関わらなくてはいけないと。関わるというのは、普通にコミュニケーションをとるだけじゃなくて、頼るっていうのも1つの関わり方なんだなと思ったんです。実際にそれで親に負担をかけたってことはないんですけど、両親に「これから俺は転職したいから、もしかしたら実家で世話になるかもしれない」と言ってみたんです。それを乗り越えて、ちょっと自分が軽くなって、「好きなことをやろう」、「好きなことってなんだ?」と考えられるようになりました。

課題を解決できれば、テクノロジーを使わなくたっていい

まず、紙の上で解決できるかを考える

岩崎 裕司

エンジニアの道に進んだのはなぜなんでしょうか?


和田 洋樹

大学時代は経済学部経済学科で、勉強よりはアルバイトを頑張っていました。アルバイトは学校内のコンピューター教室の管理をしてました。もともとコンピューターが好きで、最初は受付とかアカウントの発行の手続きをサポートしたり、最終的には開発までしてました。

岩崎 裕司

開発ですか?


和田 洋樹

当時ちょうどiモード、ケータイのインターネットが出始めたころで、まだケータイのインターネットっておもちゃだと受け取られるような時期でした。ただ、休講情報をケータイで見ることができれば学校に行かなくて済む。これはキラーコンテンツだと思ったんですね。提案して受け入れられたのはよかったのですが、ウェブサーバーとかは作ったことがなくて、本当に試行錯誤して作ったというのがエンジニアの道に足を踏み入れた第一歩ですね(笑)

岩崎 裕司

アルバイトの学生にシステムを開発させるなんて今考えたらすごいですよね。


和田 洋樹

時給900円で作りました(笑)。当時、大手通信会社が主体となって構築したV-Campusというシステムがあったのですが、次第に私が作ったシステムが組み込まれていくようになって、コンピューター室の空き情報が見られるようにシステムを作ったり、コンピューター室が4階にあったので1階で確認できるよう捨てられた端末をキオスク端末に仕立て上げたり、学生のアイデアで自由にやらせてもらいました。

岩崎 裕司

学生時代に学内のシステム周りを整備する経験からシステムエンジニアの道を進んだんですね。テクノロジーで問題を解決したいという意識が強いのでしょうか?


和田 洋樹

当時までは、テクノロジーが使えればより良く解決できると思っていたんですけど、今ではちょっと違います。新卒で入った会社時代にあった経験で、当時会社の近くに大きな酒問屋があったんですね。毎朝トラックが来て出荷するために荷積みをしているんですけど、物流システムみたいなものがないんです。どうやっているかというとクリップボードに出荷伝票を括り付けて、上から下の車庫までひもでおろすみたいな。

岩崎 裕司

超アナログですね。


和田 洋樹

ある日、上司と客先へ向かうときにそれを見ながら歩いていて、上司と言ってたのは「彼らはこれで効率良く運用できてたら、それで問題はない」と、「だから私たちが出る幕ではないというのも時には必要かもしれない」というのを話していて、それから、そもそもシステムにする前に紙で解決できないか、という話をするをするようになりました。それ以来テクノロジーを使いたいというよりは、物事を整理したいまとめたいという意識のほうが強いんだなと気付いたんです。それで人が幸せになるなら、やり方はどういうやり方をとってもいいと思っています。

岩崎 裕司

問題が解決するなら、デジタルだろうとアナログだろうといいじゃないかと。


和田 洋樹

システムを知ってるからこそ紙の上手い使い方を知ってるかもしれないっていうのはあると思っています。例えば、銀行の伝票って業務フローをめちゃくちゃ考えて作られているんですね。ここをお客さんが書いてください、次はここに行員が記入してください、その次はここから機械に通してください、そうすると機械が印字するのでそこを見て検印を押してください、みたいな感じで、あの小っちゃい伝票の中にも手順が詰まってるんですね。それ見てすごいなって思ったりしています。

岩崎 裕司

業務フローの手順が詰まっている伝票もすごいですけど、そこまで見てる和田さんもすごいなと思います!私は伝票を見ても金額しか目に入らないです。幼少のころから観察するのは好きなんですか?


和田 洋樹

無意識に見てるんだとおもいます。元々小っちゃい頃から駅の発券システムを観察して真似したこともありますし、POSレジが導入されたときも「ただの電卓からコンピュータになってる!」とめちゃくちゃ驚きましたね。


岩崎 裕司

現象を見て、その仕組みや運用がどうなっているのかを観察しているんですね。そして、問題を解決する方法はアナログでもデジタルでもいいということですね。

今は「がむしゃら」に課題解決をしていきたい

岩崎 裕司

いまはサイカで仕事をしていて、これからどう生きていきたいかとか展望はあったりしますか。


和田 洋樹

この1年何か月間かキャッチアップしてきて思ったのは、とにかくがむしゃらにやっていきたいなと。手触りのある課題をテクノロジーで解決したいという軸はぶれていなくて、この会社ってまだまだ課題はあるはずですし、今はそこにがむしゃらに取り組んでいきたいなと思ってます。大企業っぽくやっていきたかったら前の会社にいればよかったので、ここでもう一度原点に立ち返って、色々経験を積んでいるはずなのでそれらを武器にいろんな問題を解決していきたいなと思います。

課題を解決できれば、テクノロジーを使わなくたっていい

エンジニアの応援団───関係性のシステムエンジニア

岩崎 裕司

いま情熱を持って取り組んでいること、取り組みたいことはなんですか?


和田 洋樹

ディビジョンマネージャーという立場になったので、みんなのいいところを引き出したいなと思ってます。みんなのいいところをきちんと組み立てて、大きく育つような環境を作りたい。今まで業務系の仕組みづくり、システム構築をしてきたんですけど、今は関係性の仕組みをうまく作れたらいいかなと思っています。基本的にチームってみんな自律的に動いてくれるものだと思うので、ほっといてもいいものが作れるような、仕組みなり環境なりが作れたら僕は楽しいかなと思います。

岩崎 裕司

なるほど。モノや情報のシステムではなく、人が自律的に物事を考えて回していくチーム、関係性の仕組みや環境を作ることが今後の理想ということですね。


和田 洋樹

モノとかの仕組みづくり自体は、うちの社員は喜んで作ってくれる人が多いかなと思っていて、僕はどちらかというとそれを応援する立場かなと思ってます。

岩崎 裕司

和田さんはサイカのなかでどんな仕事をする立場にいるとご自身で思われますか?


和田 洋樹

「エンジニアの応援団」ですかね。みんなに「がんばれー!」っていう(笑)。1人で作れるなら会社にいる意味がないって長い間思っていて、1人でやれないからこそチームでやるので、チームがチームでいられるような環境を作ってあげたいです。

岩崎 裕司

1人でできないからチームになり、また集まっただけではチームではないと。


和田 洋樹

そうですね。1人では限界があると思えることが大事だし、この人たちでやる意味があるんだと思えることが重要だし、そういう信頼感を持った中で仕事をするというのが重要で、その環境を作れるのが僕の仕事なのかなと。

岩崎 裕司

少年時代までずっと観察して自分の手でゲームやプログラムをしてきた和田さんがチームを意識するというきっかけはどこなんでしょうか?


和田 洋樹

学校のシステムをプログラミングしていたときは1人だったんですよ。「やろうと思えばできるよ」と当時は結構天狗になっていて、新卒研修でその鼻を折られるんですね。明らかに1人で回らないような量の作業を与えられて、失敗させられて1人じゃ無理でしょと。プライド高い連中を集めてグループワークをさせて、また失敗させられる。1人でやろうとすると限界があること、会社ってそういうものじゃないからと叩きこまれたんです。その原体験を持った仲間がいて、やっとチームでこなしていくと。

岩崎 裕司

そこでチームとしての成功体験を持つわけですね。それまで和田さんの原体験の中でチームプレイってあまりないですよね。


和田 洋樹

ないですね。ずっと1人でコンピューターいじって、ゲーム作って、大学のときも自分で1人で作って、バイトのリーダーもやってましたけど、事細かく、自分の思い通りにやるように指示する感じでした。だからこそ、研修のときのグループワークでチームの重要性を痛感しましたね。みんなの知恵を集めないとできないことを学んで、共通体験をすることで共通言語が生まれるということも体感しました。


岩崎 裕司

そういう経験を通して、チームがチームでいられるような環境を今では作りたいと、応援したいというところに繋がってくるということですね。

課題を解決できれば、テクノロジーを使わなくたっていい

才能開花とは…

岩崎 裕司

それでは最後の質問なんですけれど、和田さんにとって才能開花というのはどういう状態なんでしょうか?


和田 洋樹

「自分自身の仕事が無くなること」ですかね(笑)。基本めんどくさがりなんで、仕事したくないんですよ。だから、チームのメンバーが自律的に問題を解決できるという状態が1番正しいんですよ。そのためにはちゃんとビジョンを共有できている必要があるし、チームが自律的に働ける仕組みを作らなくてはと思います。

岩崎 裕司

ご自身が不要になるほど、自律的なチームができたら才能開花だということでしょうか。


和田 洋樹

「め組の大吾」という消防士が主人公の漫画を読んでて、その最後で伝説的な存在になった主人公が「俺は俺が不要になるために生きている。それでいいじゃないか。」と言ってるんです。消防士がいらない状態、つまり火災が起きない状態を目指すのも面白いんじゃないかといって終わるんですけど、それに共感しています。


岩崎 裕司

問題、課題とか人の悩んでいるところをアナログな部分を含めたどんなやり方でもいいから解決する、解決したら自分がいらなくなる、それでいいじゃないかと。解決した状態がハッピーだということですね。本日はありがとうございました。

取材を受けてみて

和田 洋樹

5年に1度くらい、何かしらのメディアで過去を振り返る機会に出会うのですが、日々がむしゃらにやってるだけなんですが、それっぽい道になっていて面白いなーと思います。そして、前に振り返ったときには絶対に予想してなかったようなエキサイティングなことになってるな、と思います。次の5年はどうなっていくのか楽しみです。

インタビューされた人


インタビューした人

ドラえもんに出てくる“空き地”を作りたい

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コミュニティリレーションズ本部に所属する加藤朝彦さん。「サイカのファンを増やす」というミッションを掲げ、XICA-Academyなどコミュニティ作りや本記事が掲載されているオウンドメディアのディレクションを担当している。かくいう私も加藤さんのお誘いでインタビュー記事制作を担当することになる。加藤さんはサイカの窓口的存在なのだろう。デザイナーとしてキャリアをスタートし、現在はその枠を飛び越えサイカファンを増やすためなら何でもするというオールラウンドプレーヤー。

その想いの奥底には彼を育てた人と北海道という土地、上京してからの出会いがあった。彼の話を聞いていると、大切にしている人を思い出す。人と人をつなげたいという滲み出る想いは、彼が受けた愛情への恩返しなのかもしれない。

ドラえもんに出てくる“空き地”を作りたい

人と人とをつなげたい

岩崎 裕司

加藤さんの人生を変えた大きな出来事を教えてください。

加藤 朝彦

幼いころに社宅に住んでいたんですけど、そこでは年齢関係なくみんなで一緒に遊ぶ機会が多かったんです。紙芝居とか人形劇、鬼ごっこ、学校ごっこ。運動できるお兄さんが小さな子にに運動を教えたり、音楽ができるお姉さんがみんなと一緒にリコーダー吹いたり、それがすごく楽しくて、そういう場を作りたいなと想いがずっとありました。よく「ドラえもんに出てくる“空き地”を作りたい」と言うんです。のび太とかジャイアンって学校帰りに「じゃあな」って遊ぶ約束もしないで家に帰るのに、あのドカンのある空き地に集まるじゃないですか。そういう“約束もしないで誰でも気軽に来れる場所”っていうのを作りたいんですよね。

加藤 朝彦

もうひとつのエピソードは、大学3年生のときのゼミです。僕の通ってた学部では年間を通して雑誌を作るという課題がありました。企画から原稿作成、デザインや印刷所の選定まで全部学生がやるんです。僕はもともと編集がやりたかったんですが、作業していくうちにデザインが楽しくなってきて。そのゼミの講師がデザイン事務所の社長だったんですが、毎日のようにそこで作業しているうちに「うちでバイトしないか」と声をかけてもらって、大学3年生の終わりごろからバイトし始めたのがデザイナーとしてのキャリアのスタートでした。
卒業後、その会社に就職したのですが、3ヶ月後にその縁を作ってくれた社長が亡くなってしまったんです。そのときに「いつ何が起こるかわからない」と強く感じ、何か変えなきゃと思って会社以外にも仕事を受けたみたり、“空き地”を作りたいという想いに共感してくれた友人たちと小さいコミュニティを作ってみたりしました。受け身じゃなく自分からアクションしようと意識を変えるきっかけでした。そうやっていろんな人と出会ったなかで、今でもすごい可愛がってもらってる尊敬する映像ディレクターの方と知り合ったんです。ほんといろんな人を紹介してくれたり、たくさん学ぶことあったんですが、そのなかでも忘れられないことがあります。僕が当時在籍していたデザイン会社にいることが成長に繋がるのかモヤモヤしていたら、その方に「もっと自分のやっていることに誇りを持ったほうがいいよ」と言われたんです。それからは目の前にある仕事に真剣に向き合うようにしたんです。出会いのなかで圧倒的に勝てないと思う方と出会ったときがターニングポイントになってる気がします。


加藤 朝彦

あともうひとつが、サイカに入るちょっと前の話なんですけど、MeMe Design Schoolというデザイン学校に通ったんです。そこではデザインのテクニックよりも「なぜ僕らはデザインをしなければいけないのか」ということを教えてくれました。第一線で活躍しているデザイナーや編集者、評論家の方が講師できてたんですけど、いろんなアプローチからデザインを学んでいくなかでデザインのあり方を考え直すキッカケになりました。ビジュアルでコミュニケーションするだけじゃなくて、仕組みを作ることに興味が出てきたんです。社会のシステムを変えてみたいなって思ったときに、たまたま平尾からサイカに誘ってもらい、チャレンジできると思って入社しました。

岩崎 裕司

ターニングポイントすべてを通して、人とのご縁が聞こえてきます。人とのご縁で大切にしてる想いとかありますか。


加藤 朝彦

この人に負けたくないっていう感情は昔はありました。何もできないし、勝てないんですけどね(笑)最近はそういう感情ではなく、いかにお互いの良さを組み合わせて良いものできるかなと考えることが多いですね。

岩崎 裕司

負けず嫌いだったんですね。今は圧倒的に勝てないと思う人に会うとどういう感情になるんですか?


加藤 朝彦

参考にしたいっていうのはあるんですけど、それはその人にしかできないし、僕には僕のやり方があるんだなって思ってますね。

岩崎 裕司

「僕には僕のやり方がある」っていい言葉ですね。具体的にどんなところとかあるんでしょうか。


加藤 朝彦

具体的に説明するのは難しいんですが、スキルよりも想いの部分ですね。どれだけ愛情を持てるかという。スキルは全然ないですけど、向き合っているものに対する想いは負けないと思っていて、この想いを具現化できれば自分にとって強みになるし、どこに行っても通用するんじゃないかと。技術じゃなく想いの強さというのが自信につながるところだと思います。

岩崎 裕司

逆に言えば、この人には負けたくないと思っていた時期は想いに関しても自信がなかったと。


加藤 朝彦

そうですね。当時は、自分自身に意識が向いていなかったんだと思います。かっこいいことやってみたいとか広告賞取りたいとか…結果として評価されるものを求めていたのかなと。他者の評価で自分の評価が決まっていると思っていたんです。

岩崎 裕司

今では、その価値判断が芯がご自身の中にあるわけですね。


加藤 朝彦

自分がやりたいことを達成することができたら、あとからきっと評価に繋がるんだろうなと思います。自分が本当にやりたいことを実現させることや意志を持って進むということを大切にしてます。

岩崎 裕司

なるほど。その価値基準について教えていただけますか?


加藤 朝彦

ひとつは手の届く範囲っていうことだと思います。デザイン事務所にいたときもそうだったんですが、不特定多数の人に向けたものではなく顔がわかる人を想像してアプローチするのが好きなんです。手の届く範囲の人たちを楽しませたい、幸せにしたいんだと思います。


岩崎 裕司

社会へのインパクトというより、真っ先に喜ばせたいと思うのは目の前にいる人に対してなんですね。いまの話を聞いていると、手触りだとか温度感が近い人たち同士をつなげたい、そこをコミュニティ化していくというところに想いがあって、それは誰にも負けないというのを感じます。

ドラえもんに出てくる“空き地”を作りたい

幼少のコミュニティ、憧れのコミュニティから生まれた、コミュニティ作りへの想い

岩崎 裕司

デザイナーとしてキャリアがスタートして、普通ならデザインの道を極めると思うんですけど、そうならなかったのには何か転機があったからなんでしょうか。


加藤 朝彦

そのきっかけとなったのは2010年、社会人2年目のときですかね。同世代のクリエイターを集めてモノづくり集団を結成したんです。自分で言うのも変ですけど、僕はどんなモノでもある程度のクオリティまでは作れるんですよ。ただ、圧倒的にすごい人って120%のモノが作れるじゃないですか。そのとき集まったメンバーがみんなそんな感じで、それを目の当たりにしたときに僕には絶対真似できないって感じたんです。それでスペシャリストになるよりジェネラリストになろうと。自分はモノを作るより人を集めたり繋いだりする方が向いてるし、そっちのほうが楽しいなと思ったんです。その集団はみんなあまりにもみんな個性が強くてまとめられなかったんですけどね(笑)

岩崎 裕司

人と人をつなげるというところにずっとアンテナがあったんですね。


加藤 朝彦

高校の頃にtomatoというイギリスのクリエイティブ集団に憧れてたんです。underworldという音楽ユニットが所属してたりアーティストやデザイナーがいるような集団で、underworldが楽曲を作ればデザイナーがCDジャケット、映像クリエイターがMVを作るようなチームなんですけど、そういう集団を作りたかったんです。大学に入った理由もtomatoを作りたかったから。他の美大ではなく日芸(日本大学藝術学部)を選んだのは、学べることの幅が広かったからでした。文章を書く人もいればデザインや写真、映像、演技を学んでいる人たちもいるし、そういうなかでクリエイティブ集団を作りたいなと思って。それも原体験に繋がっていて、幼いころに紙芝居をストーリーから作ったりするなかで、みんなで作ることに楽しさを感じていたんだと思います。そして、そういう場を作りたかったんです。

誰でも気軽に集まれる場所をつくりたい。

岩崎 裕司

話のなかでいくつかコミュニティづくりに失敗したとおっしゃってましたが、それでも人と人をつなげようという想いが強くなるのはなぜでしょうか。普通悔しい思いをしたら匙を投げたくなるじゃないですか。


加藤 朝彦

それは、手段として選んでいないからだと思います。手段としてコミュニティを作ることが大事だとは思ってたら、失敗したときにやめると思うんですよ。そうじゃないから悔しいなって思っていても、次はどうしたらうまくいくんだろう考えるだと思います。

まだ見ぬ子と先祖、育った土地に還元したい

岩崎 裕司

これから誰のためにどんなことのために人生を使っていこうと思いますか。


加藤 朝彦

僕は北海道出身なんですけど、育ててくれた土地に自分自身を還元したいという想いはあります。上京してくるときにある友だちと約束したことがあって…その子は地元に残って「わたしはみんなが帰ってくるときのために受け皿を作っておく」と、僕は「東京で得たものを北海道に還元する」という話をしたんです。それを実現させたい。あとは、それらを将来生まれてくるだろう自分の子どもに還元したいかなと思います。

岩崎 裕司

何のため誰のためでいうと、地元であり、仲間であり、そして自分の子ども。


加藤 朝彦

自分を形作ったものへの想いが強いんです。仲間だとか家族、先祖に支えられて生きているという感覚があるので、それらに対して自分自身を還元できたらいいなとは思ってます。次の世代の還元っていうのは、僕自身が両親にしてもらったことなので、それを自分の子どもにもしてあげたいですね。

岩崎 裕司

土地、先祖までというのは加藤さん独特の感覚だと思います。自分が育ててもらった故郷という想いを強く感じます。


加藤 朝彦

そうですね。祖父母はすごく意識してます。好きだったんですよね。父方の祖父母も、母方の祖父母も。頑張っている姿を見せたいのかなっていう。もうすでに祖父母は亡くなってしまっているんですけど、今でも命日には両親に連絡をいれますね。「今日はおじいちゃんの命日だね」って。割と古い感覚を持っているのかもしれません。長男っていうのもあり、「墓守もしなきゃいけないし、彼らをその土地にいさせてあげたい」っていうのは心にあるのかもしれないですね。

サイカをコミュニティのハブにしたい。

岩崎 裕司

いま加藤さんはサイカでどんなことをされているんですか?


加藤 朝彦

ざっくりというと、「サイカのファンを増やす」ことです。そのためにできることはなんでもやっています。サイカの社名の由来は「才能開花」なのですが、「自分自身が才能開花し続けて、周りの人の才能開花を支援する」というのがサイカが目指したい世の中なんです。そのためのWHYや原体験、自分の奥底にあるエネルギーの源泉や可能性に気付くきっかけを提供したいと思っています。WHYを起点にアクションし続ける人が、自分がプロフェッショナルだと思える分野で才能を発揮できる世界を作りたいし、その人たちがお互いに助け合って世の中を動かしていく…そのハブにサイカがなれればいいなと思っています。才能開花ってひとりではできないと思うんですよね。なので、そこをサポートし合える環境を作りたい。それがコミュニティリレーションズ本部のミッションであり、僕がサイカで実現したいことです。

岩崎 裕司

具体的にはどのようなことをやられるのですか?


加藤 朝彦

入り口にあるのは、このオウンドメディアだと思っています。ここでは「自分の才能や可能性にどう向き合い、どんな想いでアクションし続けているか」という内面のことと、実際に取り組んでいるアクションを紹介するメディアを作りたいと思っています。そして、それを面白いと思ってくれた人たちがリアルに集まれるコミュニティを作りたいと思っていて、それがXICA-Academyだったり現在構想しているXICA-Loungeです。


加藤 朝彦

共通の想いや関心で集まった小さいコミュニティをたくさん作り、それをつなげることをコミュニティリレーションズ本部でできたらと思っています。XICA-Academyで学び合いながら、小さいコミュニティのコアになる人物を見つけ、共に成長していきたいですね。そのコアな人物を中心にすれば、すごく熱量が高いコミュニティができると思っていて、ひとつひとつは小さいかもしれないけど、それらがまとまれば大きなコミュニティになっていくと思います。サイカの才能開花という想いが中心にあって、その周りでコミュニティの活動が広がっていくイメージです。

誰でも気軽に集まれる場所をつくりたい。

才能開花とは

岩崎 裕司

加藤さんにとって才能開花っていうのはどういう状態ですか?


加藤 朝彦

“なりたい自分”と“実際の自分”が合致した状態、その一致感が才能開花した状態だと思っています。ただそれがもし合致したとしても、きっと新たな“なりたい自分”が見つかると思っていて、それを探求し続けるということなんだと思います。WHYを持ちながらアクションし続ける状態が大切なんだと思います。

岩崎 裕司

そこを明確にし、アクションし続ける状態が才能開花と。


加藤 朝彦

つい最近までWHYを見つけられていなかったんです。それまではとにかくがむしゃらにアクションしていたんですけど、そのアクションがあったからこそ自分の想いに気付けたのだと思ってます。


岩崎 裕司

すべてのアクションは無駄にならないということですね。本日はありがとうございました!

取材を受けてみて

加藤 朝彦

いままでいろいろ考えや想いが変わっているからこそ今の自分があると思ってましたが、根底には幼いことからずっと一貫した想いがあることを再確認できました。そして、改めて僕はまわりの人や環境に恵まれてるんだなと思います。

インタビューされた人


インタビューした人

まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

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3月からサイカにパートナーとしてジョインすることになった原田博植(はらだひろうえ)氏。彼のキャリアはアナリスト一筋。そして昨年、日経情報ストラテジーが選出するデータサイエンティスト・オブ・ザ・イヤー2015を受賞した。このキャリアを見ると、分析という専門性を駆使し、データにのみ解を求めるような人物像をイメージするだろう。しかし、過去に何度かお話させていただくなかで、彼の考えや感覚は僕のイメージしているデータサイエンティストとは少し違う気がしていた。それは今回改めてお話を伺うなかで彼の根底にある“想い”を知ることで納得ができた。

まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

やると決めたら主体的に打ち込んだ学生時代

加藤 朝彦

今日はよろしくお願いします。まず自己紹介をお願いします。


原田 博植

原田博植です。社会人のキャリアはシンクタンクに8年、外資ITベンチャー1年半で、いま株式会社リクルートライフスタイルに在籍しています。一貫してアナリストという専門性を磨いてきました。アナリストという専門性をを究めることのできる環境であること、それと同時にジェネラルな能力も研鑽できる環境という掛け算を求めて、総研系のシンクタンクを最初の職場に選びました。いつも根底には「最初から最後まで自分でやりたい」という気持ちがあり、事業全体の一部の業務だけではなく、マーケティングや経営の勉強をして独立したいと思っていました。昔から「自分が自分のオーナーでいたい」という想いがありました。

加藤 朝彦

専門業務だけに注力するのではなく、包括的にビジネスに関わりたいと思うようになったきっかけはなんだったんですか?


原田 博植

大学生時代に研究の傍ら、吉本興業の企画代行をやっていました。吉本が持っていた2,000人規模のホールでさまざまな企画を担当しました。そのときに「仕事って主体的にやると楽しいんだな」という経験ができたことがきっかけです。みんなで分配すると手元には10万くらいしか残らないのですが、社会のニーズを分析して、企画して、実行することによって、お金という評価がつくということが新鮮でした。

加藤 朝彦

その企画に携わるきっかけは?


原田 博植

高校のときからずっとやっていた音楽です。高校に入学してかなり真面目にバンドで音楽をやっていました。男子校だったので「モテたい」は本当に無くて「どのバンドよりも上手くなること」が目的でした。もともと中学でサッカーをやっていて、毎日倒れこむくらい練習をするような環境にいました。そのときのスポ根が染み付いていて、当時はコンテストでも常勝でした。そんななかで、よく通っていたリハーサルスタジオの方に「自分で企画してみたら?」と誘われて、今まで対バンしたなかで上手かったバンドを集めて企画したのが始まりでした。ファッションショーをアレンジしたり、マーケットプレイスを主催したり、そんな経験を重ねながら「面白いことしたいなら自分でやればいいんだ」という思いを強くしていきました。


原田 博植

とはいえ自分のことはまだまだ未熟だと思っていたので、大学卒業してすぐに起業するというモチベーションにはならなくて、勉強するためにシンクタンクへ入りました。「我以外皆我師(われいがいみなし)」という言葉を大事にしており、勉強したいという気持ちが強かったです。

加藤 朝彦

就職先が音楽と関係なかったのはなぜですか?


原田 博植

歌や演奏がうまくてコピーバンドでは強かったのですが、作曲の才能がなかったからです(笑)。かといって目的をずらして音楽業界と関わりたい気持ちはありませんでした。ずっとやっていたことなので音楽はすごく大切だったのですが、それ以上に「主体的にやる」ということが大切でした。これは昔から変わらなくて、怪我をしてサッカーを続けられなくなったときにも「次は何やるか」を考えました。中学校卒業前には高校で一緒にバンドをやるメンバーを集めきりました。

加藤 朝彦

そのころから主体的に行動されていたんですね。幼い頃からそうだったんですか?


原田 博植

小学生のころはボーッとしていました。ただ、いつも観察していました。国立の小学校だったので電車通学だったのですが、そのころ通勤途中の大人たちを毎日のように観察していました。通勤電車を楽しそうに乗っている大人はあまりいなくて、満員電車で身動きとれない状態で幼心に「この先に楽しいことはあるのかな? 憂鬱になるために生きていくのかな?」と考えました。今になるとそのときの大人たちが憂鬱だったわけじゃないと思っているのですが、当時は無気力にならないために、主体的に生きないといけないという感覚はありました。


原田 博植

あと幼いころ身体が小さかったんです。大きい子は余裕があるんですよね。そこまで必死に考えなくても何かで勝てるから。でも小さいと打開するために絶えず考える。それは大人になってからも、弱者の戦略などの形で同じ構造があると思います。

加藤 朝彦

いままで主体的に動いてこられるなかで大切にしている想いはありますか?


原田 博植

座右の銘が「変化」です。変化を大切にしていて、「変化に遅れると死ぬ」と思っています。

加藤 朝彦

どうして変化に対してそこまで思うようになったんですか?


原田 博植

外部環境はいつも変わります。それに対して人間ひとりでできることは少ない。サイカのクレドである「才能開花し続けて、才能開花を支援する」にも通じますが、外からの影響を受けながら自分が変化し続けることでまわりへの影響も変わってくると思っています。それのよって関わる方たちも変わってくる。すべての起点で自分が変化しないと始まらない。必要だと思う変化を求めて、いままで会社を変わってきたというのもあります。


原田 博植

それに主体的でないと変化はないと思っています。大学生のころ、バックパッカーが流行ったのですが、友人たちが海外でさまざまな経験をしていて、すごいなーと思っていました。僕は吉本興業の企画をやっていたこともあり旅行をまったくしていなくて、海外経験の少なさに劣等感持っていました。卒業間近にその友人たちへの素直な憧れを話していたら「やることなくて、なにやっていいかわからなかっただけなんだよ。お前はいつも形にしているじゃないか」と言われ驚きました。いわゆる自分探しと言われるものでも、場所や時間、振る舞いを変えても、主体性がないと本質的には変わらないのだと学びました。だからこそ、ずっと主体性を失ってはいけないんだという想いがあります。

まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

事業のあらゆるフェーズ、組織のあらゆるファンクションの数字と向き合ってきたからこそわかることがある。

加藤 朝彦

そこからなぜアナリストになろうと思ったのですか?


原田 博植

アナリストになろうと決めたのは、世界の構造計算が好きだからです。外から影響を受けることを重要だと思っているので、会社組織や多くの人と働くということを選びました。そのなかで分析という職能を究めることに魅力を感じた。それは思し召しです。アナリストの適正はあったと思います。バイオメトリクスや非接触ICチップ、電子ペーパーなど、今後の社会インフラの行方と市場規模を見立てる業務は刺激的でした。分析的な性格が花開いたのだと思います。

加藤 朝彦

その後WEBサービスの業界に移られたのはなぜですか?


原田 博植

変化したかったからです。当時IT業界がものすごい早さで変化していたので、飛び込みたいという想いがありました。IT業界で最初の役職はディレクター兼リサーチャーというものでした。実際の業務は、ユーザビリティテストの観測結果を数量化したうえで、反面調査のヒアリングを行い、言語領域と非言語領域を分析し、定性情報と定量情報の根拠を駆使して、WEB画面の改善を提案するというものです。最終的には自社サービスの開発をしたいという想いがあったので、その後グルーポンで情報系データベースの環境構築と業務設計に尽力しました。ここでスタートアップの苛烈な立ち上げ業務の洗礼を受けました。私は常に全体把握しながら柔軟に何かを吸収しようとしているのですが、そこからリクルートに転職したのは、さまざまな分野において日本一のサービスを持っているから。事業主側の実務とデータベースを骨の髄まで知ることができる会社だと思ったからです。パートナー側と事業主側の両方を経験しているのは、自分のキャリアの希少性だと思っています。

加藤 朝彦

ご自身が主宰されている丸の内アナリティクスはどのような意図で始められたんですか?


原田 博植

変化と好奇心です。丸の内アナリティクスは「日本のビジネスにおいて分析が “正しく” “速く” “多く” 行われるようにしたい」という理念のもと始めました。数字や分析・データを活用することが、もっと日本でもインフラが整ってルーチン化されるべきだと考えています。しかし、なによりも私個人の知識欲求として、さまざまな業種でビジネスを展開している企業の方から学びたいという意欲がありました。丸の内アナリティクスの参加企業は一業種一社に限定しているのですが、その理由は、競合関係のない異業種同士だからこそできる深い意見交換をしていきたかったからです。

加藤 朝彦

そんななか、なぜサイカにジョインしたのですか?


原田 博植

自分はドメスティック企業や外資系企業、スタートアップから大企業、コンサルタントから事業会社とさまざまな越境を繰り返してきて、職能はずっとデータ分析に軸足を置いてきて、キャリア形成が希少な部類だと思います。さらにそれぞれの場所で、データベース設計・運用設計・施策・成果とあらゆるフェーズの数字と向き合ってきたのですが、経験的に、一部だけ最適化してもうまくいかない場面をたくさん見てきました。横断的にやりきるのは組織全体の思考体力が不可欠だと思っていて、粘り強さが必要です。サイカにはその粘り強さがあると思います。まずトップの平尾さんが粘り強い。だからサイカのツールは本質的に使えるツールになると思った。そして、しっかりと使えるものするためにサイカにコミットしたいと思いました。


まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

データ環境がコモディティ化したときに一番価値が出てくる。

加藤 朝彦

データ分析を成果に結びつけることは学術的な理論や分析ツールを磨き上げることですか?


原田 博植

成果を出すポイントがいろいろあると思いますが、マーケットインとプロダクトアウトの折衷が必要です。論語に「中庸」という言葉があります。中庸とは「普通」ということではなくて、壮絶な状況だと考えています。真ん中の状態を保つのが一番難しいし大変です。いろいろな角度から見ても、事象に対して平静や公正を保つのはすごく難しい。いまのデータサイエンティストという言葉もそうです。理論か応用かどちらかに寄ると安定するのは当然ですが、極端に寄ることは本質的でないと思います。越境すること、一番の緩衝地帯で、摩擦の大きいところで踏ん張るのが一番しんどいし、だからこそ価値があると思います。そこを真剣にできれば、やれる人が少ない事ができるようになって、コモディティ化したときに一番価値が出てくる。マゼランにはそういうツールになって欲しいと思っています。

加藤 朝彦

最後に、才能開花をどのように捉えていらっしゃいますか?


原田 博植

僕はもう才能開花というには気恥ずかしい年齢になっています(笑)。でも、一番いい化学反応が起こる状態を模索したいです。自分と他者が関わって一番大きな掛け算になる。年齢を重ねて本質的な問いが解けてくるところはあると思います。若いときには無かった驚きはあります。成果の総量を大きくすることができた時には驚きます。直線的な計算スキルアップに限っていえば、頭の回転とか集中力の持続とかの観点から、絶対に若いほうがいいんです。でも、曖昧な特徴量を組成することや全体設計をすることは若いうちの経験では足りないので、それを模索しています。もはや才能という言葉じゃないフェーズに自分がいることを喜んで、まわりが才能開花をしてもらうための道をつくりたいです。

加藤 朝彦

ありがとうございました。

取材を受けてみて

原田 博植

こんなに自分のことをお話ししたのは初めてで、率直に恥ずかしく思います。すこしでも、どなたかの今後の参考にして頂ければ、こんなに嬉しいことはありません。ありがとうございました。

インタビューされた人


インタビューした人

物事の本質を知るために学び続ける。

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今回のインタビューは、東海大学の講師(2016年4月より准教授)であり、創業当時より顧問としてサイカの分析基盤の構築に関わっている平賀一希氏。今回お話を聞き印象に残ったことは「自主性を重んじる」こと。彼がなぜ経済学を専攻し、研究者として学問と向き合っているのか。彼の奥底にある“想い”を聞くことができた。

平賀一希氏

経済学をどう社会で生かすのか?を考え続る。

加藤 朝彦

今日はよろしくお願いします。早速ですが、平賀先生の人生で大きな影響を与えたエピソードをお伺いしてもよろしいでしょうか?


平賀 一希

はい。よろしくお願いします。私はいまマクロ経済の研究を中心にいくつかの大学で教鞭をとっているのですが、そんなキャリアにおいて影響を与えたできごとは、まずは大学院に進学したことです。私自身大学で経済学を学んでいたのですが、それをどう社会で生かそうか? 自分は何をしたいのか?を考えたときにもう少し学びたいと思ったんです。そこで財政政策の理論を研究するために進学しました。


平賀 一希

もうひとつのできごとは、慶應義塾大学で竹中平蔵ゼミのサポートをしたことです。27歳のときに竹中先生のゼミが復活するとなり、そこで授業のサポートのお誘いを受けたんです。彼は「What’s the problem?」とよく学生に問いかけていました。彼ははっきりと物を言う方なので賛否両論あると思いますが、ただ批判をしているのではなく、そこにははっきりとした根拠はあるんです。世の中には「何が問題なのか?」を指摘できる方は多いとは思いますが、それに対して「その問題をどのように解決するのか?」「自分はどうアクションするのか?」まで考えて発言している方は少ないように思います。そういう意味では彼は“批判する人”として説明責任を果たしていると思いました。その辺りの姿勢などは非常に勉強になりました。

加藤 朝彦

そんななかで平尾さんと出会っているんですよね?


平賀 一希

はい。平尾との出会いも私の中で大きなできごとです。彼とは竹中ゼミの懇親会で出会いました。第一印象は、その頃彼はバンドマンでしたし「なんかすごい髪型だなぁ」という感じでした。懇親会ではそんなに多くは話さなかったのですが、その後行った二次会でとても熱い奴だと感じました。そんななか平尾から起業するから協力してほしいと相談を受けました。その頃から、私はマクロ経済と財政政策を学ぶなかで民間の現場が分からないという実感があったんです。私の研究がビジネスに貢献でき、ビジネスの現場から研究のヒントももらえると思ったので快諾しました。

加藤 朝彦

他の企業でもできたと思うのですが、サイカを選んだ理由はなんだったんですか?


平賀 一希

もちろん事業内容が面白いと思ったのですが、それ以上に平尾のパーソナリティに惹かれたからです。

平賀一希氏

学問が実体を伴っていないと納得できない

加藤 朝彦

そもそも経済学を専攻しようと思ったきっかけはなんだったんですか?


平賀 一希

経済学に興味を持ったのは高校生の頃です。その頃ちょうど山一証券や北海道拓殖銀行が倒産した時期で、なんとなくそのニュースをテレビや新聞で見ていたのですが、これが自分の生活にどのように影響を与えているのかが気になったことがきっかけです。

加藤 朝彦

高校生の頃にそこまで考えられるってすごいですね。僕はそんなこと思えませんでした。


平賀 一希

学問が実体を伴っていないと納得できないことが多いんです。受験のための勉強とかもあまり好きではなく、それで英語などは苦手意識を持ってしまいました。いまそのツケがまわってます(笑)だから、いま学生にも「もっと長い目で見て、目標を達成するためにどうするかを考えましょう」と言うようにしています。「就活に有利」とか言ってもモチベーションが保てないですしね。

加藤 朝彦

実体が伴っていないと理解できないというのは幼い頃からですか?


平賀 一希

そうですね。幼い頃から自分が学んでいることが世の中にどう役立つのかを考えているような子だったと思います。なので社会科は好きでした。物事の本質をしっかり捉えておきたいんだと思います。

平賀一希氏

学問とビジネスの橋渡しをしたい。

加藤 朝彦

では、いまはどのようなお仕事をされているのですか?


平賀 一希

いまは東海大学と明治大学で教鞭をとりながら自分の専攻の“マクロ経済”について日々研究をしています。

加藤 朝彦

教員と研究者はいろいろと違う面があると思うのですが、それぞれに気をつけていることはありますか?


平賀 一希

教員としては、先ほどの話ではないですけど、学生には「もっと長い目で見て、目標を達成するためにどうするかを考えましょう」と言っていて、できるだけ自主性を持たせたいと思っています。そのためにも伝え方なども工夫しています。例えば「勉強しなさい」と言うのではなく、「興味を持ったなら調べてみましょう」というように。いま私自身が教育に非常に興味があるのですが、教育経済学のなかで「非認知能力が所得に影響を与えている」という発表があったんです。忍耐性や協調性などの座学以外の教育が成長にどのように影響を与えるのかというのを研究してみたいですね。


平賀 一希

私の所属している東海大学では「東海大学の4つの力」として「自ら考える力」「集い力」「成し遂げ力」「挑み力」というのを掲げているのですが、まさにこれは非認知能力のことです。退学率や就職率を改善するためにどのような取り組みが必要なのか?という研究は本学でもなされているのですが、成長率のように定量的に測りにくいことをどう評価するのかということに興味があります。


平賀 一希

また、産学連携なども取り組んでみたいことですね。理系分野では非常に産学連携が活発ですが、社会学分野ではまだまだ不十分だと考えています。そこにもっとコミットして、ビジネスとアカデミックを繋げる仕事をしてみたいですね。

加藤 朝彦

具体的にはどのようなことかイメージはありますか?


平賀 一希

どの世界でもネットワークが非常に大事だと考えています。私自身もさまざまな方に磨いてもらって研究を続けれこれました。ただ、そのネットワークがうまく広がっていないのも事実です。私はサイカと関わるなかで知り合ったビジネスの現場の方とアカデミシャンを繋げることで新たな可能性も広がると思っています。また、サイカの分析基盤はもっと改良することはできると思いますし、リアルなビジネスのデータから得られた知見をアカデミックにフィードバックすることもできるはずです。その橋渡しをできればと思っています。

才能開花とは…心のなかにあるものが表出すること

加藤 朝彦

最後に、平賀先生は“才能開花”という言葉をどのように捉えていますか?


平賀 一希

才能はもともと心のなかにあるものだと思っていて、それが表出することだと思います。でも、なかなかそれに向き合うことは難しくて、なかなか手をつけられないところにチャレンジすることが才能開花だと思います。

加藤 朝彦

平賀先生を突き動かすエネルギーの源はなんでしょう?


平賀 一希

好奇心ですね。面白いと思ったことだったら実現できますし、それが物事の推進力になってくると思ってます。しかし、それはひとりでは絶対にできません。時間も命も有限ですから。限られたなかだからこそ周りの方達を巻き込んでいく必要があると思います。


加藤 朝彦

ありがとうございました。

インタビューを受けてみて

平賀 一希

少し大きな話になりますが、自分自身を振り返ってみて、自分はどのように生きてきて、今後どのように生きていきたいのかを改めて考えさせられました。サイカに携わることで、アカデミアの世界では経験できないことを知ることができただけでなく、学術的な知識や興味関心の広がりも得ることができたと実感しました。インタビューを受けることで再び意識を強くすることができた「才能開花」を実現できるよう、深く考え活発に行動していきたいものです。

インタビューされた人


インタビューした人

自分の大切な人にとって、優しい人でありたい。

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今回のインタビューは、スタティスティックスディビジョンの二木皓史。経済学を大学院で専攻し、サイカ唯一の新卒社員として2013年に入社。入社以来ずっとサイカの統計分析基盤を支えている。彼と一緒に働いているなかで「みんなのためにサポートしたい」という印象を常に持っていた。それが今回のインタビューを通じて、そこを再認識し、そのきっかけとなる彼の大切にしている“想い”を知ることができた。

自分の大切な人にとって、優しい人でありたい。

格差問題をリアルに感じ、経済学にのめり込んだ。

加藤 朝彦

今日はよろしくお願いします。現在の二木さんのお仕事を教えてください。


二木 皓史

入社以来、データアナリストとしてデータ分析の仕事とそれに関連するコンサルティングをやってきました。いまはサイカの提供するプロダクトの分析基盤の構築などを担当しています。今後は分析の幅を広める意味でもRやPythonなどのプログラミングを活用して、いままでとは違うアプローチで統計分析を活用いきたいと考えています。

加藤 朝彦

統計学に興味を持ったきっかけはなんだったんですか?


二木 皓史

もともとは経済学に興味があったんです。経済学に統計分析は必要なスキルなので、それで学び始めました。学んでみると面白くて、もっと勉強してみたいと思ったのがきっかけです。

加藤 朝彦

そもそもなんで経済学に興味を持ったんですか?


二木 皓史

大学に入学する前から日本の格差問題に漠然と興味があったんです。それで大学では格差問題について学んでみたいと思っていました。それには経済学からが一番アプローチがしやすかったんです。所得の格差が問題として一番大きくて分かりやすいので、初めに学ぶテーマは経済学がいいのではないかと思ったのがきっかけですね。


二木 皓史

もうひとつは、大学1年生の時に受けた経済学の授業がすごく面白かったんです。その教授が経済学の魅力を分かりやすく伝えてくれたんですよね。結局、その教授のゼミに入ることになったんです。そこで興味を持てたのが大学院まで経済学を学ぼうと思ったきっかけです。

加藤 朝彦

大学院でもっと深掘っていきたいという?


二木 皓史

そうですね。

加藤 朝彦

格差問題っていろいろあると思うんですが、所得以外にも研究されたんですか?


二木 皓史

最初は漠然と「格差ってよくないよね」ということだったんです。いま考えるとそこで言っている格差とは“所得”のことだったんだと思います。でも、学んでいくにつれて所得だけではなく、もっと広く社会問題として捉えるようになったんです。所得の格差を元にさまざまな問題が起こっていることを知り、その問題を解決したいと考え始めました。

加藤 朝彦

大学1年生でそこまで問題意識持てるってすごいですね。


二木 皓史

大学で知り合った友人たちと「自分がやりたいことはなんだろう」というのをよく議論していて、そういうことを恥ずかしがらずに言える環境だったんですよね。だから自分も自然と考えるようになってました。

加藤 朝彦

格差問題はもっと昔から興味があったんですか? それとも大学入って芽生えたものですか?


二木 皓史

大学入試で小論文があったんですが、そのために知識を増やしたいと思って社会問題について調べてた時期があったんです。そのときに格差問題に関する本を手に取ったことがきっかけに考えるようになりました。地元がすごく田舎で、東京に比べたら所得が高くないんですよね。それでいて大学に入ると、まわりに裕福な家庭で育った同級生とかがいるんですよ。

加藤 朝彦

リアルに格差を目の当たりにし、より強く思ったんですね。


二木 皓史

そうなんです。地元だと進学したくてもできなかった同級生もいたんですが、大学には想像もつかないような裕福な人もいたんで…。そこから経済学を真剣に学び始めました。

自分の大切な人にとって、優しい人でありたい。

憧れのプロ野球選手と同じ大学に行きたい!

加藤 朝彦

大学を選んだ理由は?


二木 皓史

大学はSFC(慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス)だったんですけど、そこに行きたかったというよりは慶應に行きたかったんです。もともとは経済学部が第一志望だったんですが、受からなかったので…。慶應に憧れた理由は、幼いころに好きだったプロ野球選手の影響です。その選手が出身だったという単純な理由です。

加藤 朝彦

野球やってたんですか?


二木 皓史

やってないです(笑) 観るのは大好きですけど。

加藤 朝彦

それで志望校なるってすごいですね(笑) それを目標にずっと勉強を頑張ってた感じですよね。


二木 皓史

そうですね。目標というかそれが夢だったんだと思います。でも、野球選手はあくまできっかけで、そのあとはそのブランドに惹かれてたんだと思います。地元から慶應に行く人いなかったんで、人と違うとこに行ってみたいというのもありました。

加藤 朝彦

人と違うことをしたいという想いとかはあったんですか?


二木 皓史

ちょっとはあったかもしれないですけど、田舎だとコミュニティが小さくて、人と違うことすると仲間外れにされちゃうんですよね。なので、なるべく目立たないようにはしてたつもりです。

加藤 朝彦

入学してみて実際どうでした? 慶應に入ることを夢にしてたら燃え尽き症候群みたいにならないかなぁって思って。


二木 皓史

それはあったと思います。でも、それまでは勉強ばっかだったのが、サークルとかいろんな活動があったので、すぐにいろんな楽しいことは見つけられましたね。とにかく大学入って友人がたくさんできたことが大きかったと思います。みんな多様な価値観を持っているので、自分の考えを主張してもいいんだということはありましたね。

加藤 朝彦

地元にいたときは一様な考えじゃないと仲間外れになってしまうから…それってだいぶマインドシフトが起きそうですよね。


二木 皓史

そうですね。すごかったですね。

加藤 朝彦

そこで影響受けたできごととかありました?


二木 皓史

いままでは「性格的に合わなそうだな、苦手だな」と思う人とはできるだけ付き合わないようにしてたんです。でも、実際に話してみると面白かったり自分と似ているところあったりすることあるじゃないですか。それで仲良くなるというか…そういう仲良くなり方もあるんだなというのは新鮮でした。見た目や先入観で偏見を持たないことの大切に気付けました。それをきっかけに初対面の方でも心を開けるようになったりもしましたし。

加藤 朝彦

心を開くために自分の考えをぶつけてみたり?


二木 皓史

そうですね。そうやってお互いのことを知ることで徐々に信頼関係とかは築けるかなと思ってます。

加藤 朝彦

大学は“人”との出会いが価値だった感じですか?


二木 皓史

そうですね。あとは新しいことにチャレンジするということができるようになりました。友人に誘われてミュージカルのサークルに入ったんです。もともとは裏方だったんですが、たまたま「出てみる?」という話になって。最初すごく嫌だったんですけど、実際出演してみると意外と楽しくて。脇役だったんですけど「良かったよ」と言ってもらえて嬉しかったのを覚えてます。それに手伝うことで友人に喜んでもらえたんですよね。いままではやったことないことは避けてきたんですが、そういう経験を通じて積極的になれたかなと思いますね。

大学院では「格差問題」をテーマに研究。

加藤 朝彦

大学院ではどのようなことを専攻したんですか?


二木 皓史

学部生のころから格差問題を学んでいたので、それに関することを研究したいと思っていました。経済学以外のアプローチからも調べたこともあったんですが、経済学は学べば学ぶほど奥が深くて楽しかったので、経済学的なアプローチから「格差問題」というテーマで研究をしていました。


二木 皓史

格差問題を研究するなかで見えてきたことがあって、「貧しい家庭で育った子どもは、将来貧しい家庭を築く」ということが分かったんです。あくまで傾向ではあるんですけど…。それって生まれた環境によって自分の将来が決まってしまう状態ですよね。機会の平等という観点からも望ましくないと思うんです。それを引き起こしている要因のひとつは“教育”なんですよね。貧しい家庭で育った子どもは、教育機会が少ないことで所得が低くなる可能性があるという研究結果もあり、そういう意味でも教育というのは格差問題に大きな影響を与えているのではないかと思って、教育経済学を専攻していました。

加藤 朝彦

教育機会が少ないことで所得も低くなって格差が広がるというのは、一度そのスパイラルに陥ったらずっと抜けられないような気がするのですが…。


二木 皓史

そうなんですよね。それから脱却するには周囲が教育機会を作ることと個人のモチベーションを維持させる両面のサポートが必要ですよね。教育機会の損失は子どもの勉強意欲の低下にもつながるので…。

加藤 朝彦

修士論文のテーマもそのあたりですか?


二木 皓史

そうです。「家庭の所得と子どもの成績の影響」をテーマに「社会経済地位がやる気に影響を与え、それがきっかけで成績に影響があるのではないか」という仮説のもとに研究しました。

自分の大切な人にとって、優しい人でありたい。

卒業文集に書いた将来の夢は「優しい人になりたい」

加藤 朝彦

その後サイカに入社した動機は?


二木 皓史

一応就活はしていたんですけど、いわゆる大手企業を志望してたんです。平尾さんが起業すると聞いたときも「すごいね」と他人事にしか思ってなかったので。でも、サイカに誘ってもらったことで、大手企業を志望してたのはネームバリューが欲しかっただけなんだなって気づいたんです。大学を選んだ理由も同じだったと思います。


二木 皓史

大学で新しいことにチャレンジする楽しさを知ったことで、「やりたいことをチャレンジしてみたほうがいいんじゃないか」と思ったんですよね。それで平尾さんと改めて話したときに自分が持っている経験やスキルを活かせると思ったんです。あとは単純に平尾さんの力になれたらいいなというのもありました。自分の知識が必要とされていると思ったんですよね。

加藤 朝彦

自分のやりたいことというのは、統計分析のスペシャリティを発揮したいということでしょうか?


二木 皓史

統計分析の技術を活かしたいというよりは、学問を活かしたいという考えでした。サイカは当時、マクロ経済予測やコンサルティングをやっている会社だったので、そこで大学院で学んだ経済学を活用するイメージでした。そのひとつとして統計分析があった感じです。

加藤 朝彦

二木さんの話のなかで「必要とされている」「人に喜んでもらえた」という想いが強く感じたのですが、それって大切にしていますか?


二木 皓史

いま話してて、そういう欲求があるんだなということに気づきました。おそらく家庭の事情が大きいんじゃないかと思います。父がすごく厳しかったんです。幼い頃に怒られた記憶って、恐怖心としてずっと残ってるんですよね。それで、昔から「優しい人になりたい」というのがあったんです。小学校の卒業文集に将来の夢を書く欄があって、みんな「サッカー選手になる」とか「野球選手」とか書いてるのに、自分だけ「優しい人になりたい」って書いてるんです(笑)


二木 皓史

それが価値観の根底にあるのかなぁって思います。なので、自分が大切な人にとって優しい人でありたい、思いやりを持って接したいという想いがあります。周りの人を幸せにすることが自分の幸せなのかなぁと思うんです。だから「喜んでもらいたい」というところになるんだと思います。

加藤 朝彦

優しさにもいろいろ種類があると思うんですけど、二木さんの思う優しさは、目の前にいる人に喜んでもらうということでしょうか?


二木 皓史

そうですね。中高時代に人付き合いに苦手意識を持った時期があって、あまり友人が多くなかったんですよね。それがあるので、大学に入って友人がたくさんできたことは新鮮でしたし、当たり前ではないことだったんです。だからこそ、そういう友達に恩返ししたいというのはあります。それで、人に喜んでもらいたいというのがあるんだと思います。

才能開花とは…自分のスキルで人を幸せにすること。

加藤 朝彦

では、そのような大切にしている想いをもとに今後どう才能開花していくと思いますか?


二木 皓史

大学院の時に大きな壁にぶつかって諦めたことがあるんです。乗り越えられないと思ったとたんシフトチェンジしてしまったんです。そこで諦めてしまったことが劣等感になっていて、ひきづってたんです。でも社内でメンバーと話すなかで、分からないなりに自分で泥臭く問題解決してきた話を聞いて、みんな壁を乗り越えてきたんだと知った時に自分自身に甘さを感じたんです。


二木 皓史

学ぶことは壁を乗り越えることの繰り返しなんだなと。そういう意味では、僕自身の才能開花は、いま学んでいるエンジニアスキルを身につけて、ビジネスとデータを結びつけて問題解決できるようになることです。そうすることでまわりの人を幸せにできるのかなと思っています。


加藤 朝彦

ありがとうございました。

インタビューを終えて

二木 皓史

今回取材を受けて、自分の原点って意外とシンプルなんだなと感じました。才能開花をするためには、「自分なら絶対できるんだ」という自信と成功イメージが大事だと思います。私は、自らの才能開花も目指しながらも、まわりの大切な人にとっての才能開花も温かく後押しできるような存在になりたいと思っています。

インタビューされた人


インタビューした人

まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

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3月からサイカに顧問としてジョインすることになった原田博植(はらだひろうえ)氏。彼のキャリアはアナリスト一筋。そして昨年、日経情報ストラテジーが選出するデータサイエンティスト・オブ・ザ・イヤー2015を受賞した。このキャリアを見ると、分析という専門性を駆使し、データにのみに解を求めるような人物像をイメージするだろう。しかし、過去に何度かお話させていただくなかで、彼の考えや感覚は僕のイメージしているデータサイエンティストとは少し違う気がしていた。それは今回改めてお話を伺うなかで彼の根底にある“想い”を知ることで納得ができた。

まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

やると決めたら主体的に打ち込んだ学生時代

加藤 朝彦

今日はよろしくお願いします。まず自己紹介をお願いします。


原田 博植

原田博植です。社会人のキャリアはシンクタンクに8年、外資ITベンチャー1年半で、いまは大手情報サービス企業に在籍しています。一貫してアナリストという専門性を磨いてきました。アナリストという専門性をを究めることのできる環境であること、それと同時にジェネラルな能力も研鑽できる環境という掛け算を求めて、総研系のシンクタンクを最初の職場に選びました。いつも根底には「最初から最後まで自分でやりたい」という気持ちがあり、事業全体の一部の業務だけではなく、マーケティングや経営の勉強をして独立したいと思っていました。昔から「自分が自分のオーナーでいたい」という想いがありました。

加藤 朝彦

専門業務だけに注力するのではなく、包括的にビジネスに関わりたいと思うようになったきっかけはなんだったんですか?


原田 博植

大学生時代に研究の傍ら、吉本興業の企画代行をやっていました。吉本が持っていた2,000人規模のホールでさまざまな企画を担当しました。そのときに「仕事って主体的にやると楽しいんだな」という経験ができたことがきっかけです。みんなで分配すると手元には10万くらいしか残らないのですが、社会のニーズを分析して、企画して、実行することによって、お金という評価がつくということが新鮮でした。

加藤 朝彦

その企画に携わるきっかけは?


原田 博植

高校のときからずっとやっていた音楽です。高校に入学してかなり真面目にバンドで音楽をやっていました。男子校だったので「モテたい」というのは本当になくて「どのバンドよりも上手くなること」が目的でした。もともと中学でサッカーをやっていて、毎日倒れこむくらい練習をするような環境にいました。そのときのスポ根が染み付いていて、当時はコンテストでも常勝でした。そんななかで、よく通っていたリハーサルスタジオの方に「自分で企画してみたら?」と誘われて、今まで対バンしたなかで上手かったバンドを集めて企画したのが始まりでした。ファッションショーをアレンジしたり、マーケットプレイスを主催したり、そんな経験を重ねながら「面白いことしたいなら自分でやればいいんだ」という思いを強くしていきました。


原田 博植

とはいえ自分のことはまだまだ未熟だと思っていたので、大学卒業してすぐに起業するというモチベーションにはならなくて、勉強するためにシンクタンクへ入りました。「我以外皆我師(われいがいみなし)」という言葉を大事にしており、勉強したいという気持ちが強かったです。

加藤 朝彦

就職先が音楽と関係なかったのはなぜですか?


原田 博植

歌や演奏がうまくてコピーバンドでは強かったのですが、作曲の才能がなかったからです(笑)。かといって目的をずらして音楽業界と関わりたい気持ちはありませんでした。ずっとやっていたことなので音楽はすごく大切だったのですが、それ以上に「主体的にやる」ということが大切でした。これは昔から変わらなくて、怪我をしてサッカーを続けられなくなったときにも「次は何やるか」を考えました。中学校卒業前には高校で一緒にバンドをやるメンバーを集めきりました。

加藤 朝彦

そのころから主体的に行動されていたんですね。幼い頃からそうだったんですか?


原田 博植

小学生のころはボーッとしていました。ただ、いつも観察していました。国立の小学校だったので電車通学だったのですが、そのころ通勤途中の大人たちを毎日のように観察していました。通勤電車を楽しそうに乗っている大人はあまりいなくて、満員電車で身動きとれない状態で幼心に「この先に楽しいことはあるのかな? 憂鬱になるために生きていくのかな?」と考えました。今になるとそのときの大人たちが憂鬱だったわけじゃないと思っているのですが、当時は無気力にならないために、主体的に生きないといけないという感覚はありました。


原田 博植

あと幼いころ身体が小さかったんです。大きい子は余裕があるんですよね。そこまで必死に考えなくても何かで勝てるから。でも小さいと打開するために絶えず考える。それは大人になってからも、弱者の戦略などの形で同じ構造があると思います。

加藤 朝彦

いままで主体的に動いてこられるなかで大切にしている想いはありますか?


原田 博植

座右の銘が「変化」です。変化を大切にしていて、「変化に遅れると死ぬ」と思っています。

加藤 朝彦

どうして変化に対してそこまで思うようになったんですか?


原田 博植

外部環境はいつも変わります。それに対して人間ひとりでできることは少ない。サイカのクレドでもある「才能開花し続けて、才能開花を支援する」にも通じますが、外からの影響を受けながら自分が変化し続けることでまわりへの影響も変わってくると思っています。それのよって関わる方たちも変わってくる。すべての起点で自分が変化しないと始まらない。必要だと思う変化を求めて、いままで会社を変わってきたというのもあります。


原田 博植

それに主体的でないと変化はないと思っています。大学生のころ、バックパッカーが流行ったのですが、友人たちが海外でさまざまな経験をしていて、すごいなーと思っていました。僕は吉本興業の企画をやっていたこともあり旅行をまったくしていなくて、海外経験の少なさに劣等感持っていました。卒業間近にその友人たちへの素直な憧れを話していたら「やることなくて、なにやっていいかわからなかっただけなんだよ。お前はいつも形にしているじゃないか」と言われ驚きました。いわゆる自分探しと言われるものでも、場所や時間、振る舞いを変えても、主体性がないと本質的には変わらないのだと学びました。だからこそ、ずっと主体性を失ってはいけないんだという想いがあります。

まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

事業のあらゆるフェーズ、組織のあらゆるファンクションの数字と向き合ってきたからこそわかることがある。

加藤 朝彦

そこからなぜアナリストになろうと思ったのですか?


原田 博植

アナリストになろうと決めたのは、世界の構造計算が好きだからです。外から影響を受けることを重要だと思っているので、会社組織や多くの人と働くということを選びました。そのなかで分析という職能を究めることに魅力を感じた。それは思し召しです。アナリストの適正はあったと思います。バイオメトリクスや非接触ICチップ、電子ペーパーなど、今後の社会インフラの行方と市場規模を見立てる業務は刺激的でした。分析的な性格が花開いたのだと思います。

加藤 朝彦

その後WEBサービスの業界に移られたのはなぜですか?


原田 博植

変化したかったからです。当時IT業界がものすごい早さで変化していたので、飛び込みたいという想いがありました。IT業界で最初の役職はディレクター兼リサーチャーというものでした。実際の業務は、ユーザビリティテストの観測結果を数量化したうえで、反面調査のヒアリングを行い、言語領域と非言語領域を分析し、定性情報と定量情報の根拠を駆使して、WEB画面の改善を提案するというものです。最終的には自社サービスの開発をしたいという想いがあったので、その後グルーポンで情報系データベースの環境構築と業務設計に尽力しました。ここでスタートアップの苛烈な立ち上げ業務の洗礼を受けました。私は常に全体把握しながら柔軟に何かを吸収しようとしているのですが、そこから大手情報サービス企業に転職した理由は、事業主側の実務とデータベースを骨の髄まで知ることができると思ったからです。パートナー側と事業主側の両方を経験しているのは、自分のキャリアの希少性だと思っています。

加藤 朝彦

ご自身が主宰されている丸の内アナリティクスはどのような意図で始められたんですか?


原田 博植

変化と好奇心です。丸の内アナリティクスは「日本のビジネスにおいて分析が “正しく” “速く” “多く” 行われるようにしたい」という理念のもと始めました。数字や分析・データを活用することが、もっと日本でもインフラが整ってルーチン化されるべきだと考えています。しかし、なによりも私個人の知識欲求として、さまざまな業種でビジネスを展開している企業の方から学びたいという意欲がありました。丸の内アナリティクスの参加企業は一業種一社に限定しているのですが、その理由は、競合関係のない異業種同士だからこそできる深い意見交換をしていきたかったからです。

加藤 朝彦

そんななか、なぜサイカにジョインしたのですか?


原田 博植

自分はドメスティック企業や外資系企業、スタートアップから大企業、コンサルタントから事業会社とさまざまな越境を繰り返してきて、職能はずっとデータ分析に軸足を置いてきて、キャリア形成が希少な部類だと思います。さらにそれぞれの場所で、データベース設計・運用設計・施策・成果とあらゆるフェーズの数字と向き合ってきたのですが、経験的に、一部だけ最適化してもうまくいかない場面をたくさん見てきました。横断的にやりきるのは組織全体の思考体力が不可欠だと思っていて、粘り強さが必要です。サイカにはその粘り強さがあると思います。まずトップの平尾さんが粘り強い。だからサイカのツールは本質的に使えるツールになると思った。そして、しっかりと使えるものするためにサイカにコミットしたいと思いました。


まわりの影響を受けながら自分が変化し続ける

データ環境がコモディティ化したときに一番価値が出てくる。

加藤 朝彦

データ分析を成果に結びつけることは学術的な理論や分析ツールを磨き上げることですか?


原田 博植

成果を出すポイントがいろいろあると思いますが、マーケットインとプロダクトアウトの折衷が必要です。論語に「中庸」という言葉があります。中庸とは「普通」ということではなくて、壮絶な状況だと考えています。真ん中の状態を保つのが一番難しいし大変です。いろいろな角度から見ても、事象に対して平静や公正を保つのはすごく難しい。いまのデータサイエンティストという言葉もそうです。理論か応用かどちらかに寄ると安定するのは当然ですが、極端に寄ることは本質的でないと思います。越境すること、一番の緩衝地帯で、摩擦の大きいところで踏ん張るのが一番しんどいし、だからこそ価値があると思います。そこを真剣にできれば、やれる人が少ない事ができるようになって、コモディティ化したときに一番価値が出てくる。マゼランにはそういうツールになって欲しいと思っています。

加藤 朝彦

最後に、才能開花をどのように捉えていらっしゃいますか?


原田 博植

僕はもう才能開花というには気恥ずかしい年齢になっています(笑)。でも、一番いい化学反応が起こる状態を模索したいです。自分と他者が関わって一番大きな掛け算になる。年齢を重ねて本質的な問いが解けてくるところはあると思います。若いときには無かった驚きはあります。成果の総量を大きくすることができた時には驚きます。直線的な計算スキルアップに限っていえば、頭の回転とか集中力の持続とかの観点から、絶対に若いほうがいいんです。でも、曖昧な特徴量を組成することや全体設計をすることは若いうちの経験では足りないので、それを模索しています。もはや才能という言葉じゃないフェーズに自分がいることを喜んで、まわりが才能開花をしてもらうための道をつくりたいです。

加藤 朝彦

ありがとうございました。

取材を受けてみて

原田 博植

こんなに自分のことをお話ししたのは初めてで、率直に恥ずかしく思います。すこしでも、どなたかの今後の参考にして頂ければ、こんなに嬉しいことはありません。ありがとうございました。

インタビューされた人


インタビューした人


誰からも「変わったね」と言われるくらいの新しい側面を見つけた。

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今回のインタビューは、ビジネスディビジョンの岩澤。プロモーション分析ルーツXICA magellan(http://xica.net/magellan/)のプロダクトオーナーとしてチームを引っ張っている。もともと引っ込み思案だったという彼が主体的に課題解決に向き合うまでの変化がとても興味深い。自ら行動することで周囲を巻き込んできた彼の大切にしている“想い”を知ることができた。

誰からも「変わったね」と言われるくらいの新しい側面を見つけた。

間接キスが人生の転機に

加藤 朝彦

岩澤さんの人生に影響を与えたと出来事をお聞きしたいと思います。 小さい頃はどんな子だったんですか?


岩澤 利貢

小さいころは人見知りでした。小さいころというか…中学、高校ぐらいまでは人見知りでした。人と話すのが苦手で、表に立ってなにかをするようなキャラではなかったですね。

加藤 朝彦

いまの岩澤さんからあまり想像つかないですね(笑)


岩澤 利貢

自分でもキャラが変わったなと思いますね。

加藤 朝彦

変わったきっかけはあったんですか?


岩澤 利貢

ひとつは、高校3年生のときかな。受験勉強しているときに、たまたま中学生のころの友だちと会ったんです。そのときにその友だちの女友だちもいたんですけど、人見知りだから友だちとしか話せなくて…。でも、その子が結構ざっくばらんに話しかけてくるんですよ。で、俺が飲んでたジュースを抵抗感なく飲んだんです。「それ間接キスじゃん」って(笑)そのときに「間接キスとか別に何とも思わないような人が世の中にいるんだ」というのが衝撃だったのは覚えています。

加藤 朝彦

めちゃめちゃ純粋、ウブだったんですね(笑)


岩澤 利貢

かもしれないですね(笑) それまでは引っ込み思案だったんですけど、それがきっかけに人との付き合い方に対する考えが変わった気がします。

加藤 朝彦

引っ込み思案で自分から前に出られないころは、どういう子だったんですか?


岩澤 利貢

例えば小学校の授業で手を上げたりすることはなかったですね。もう恥ずかしくて。でも、小学校3年生で一度、大阪に引っ越してるんです。環境ががらりと変わったことで、どうやったら周りから浮かないか、というのは常に考えてた気がします。

加藤 朝彦

なるほど。


岩澤 利貢

ただ、高校の部活は変化するきっかけだっのかもしれないです。高3の時にキャプテンになったんです。その時に初めて前に立って引っ張っていけなければならなくて…。

加藤 朝彦

そこまで引っ込み思案だったらキャプテンにも立候補しなそうですけど。


岩澤 利貢

同世代が2人しかいなかったんですよ(笑)2人しかいなかったんだけど、一学年下の後輩は15~16人くらいました。そうなると、最初は言うこと聞くんですけど、だんだん生意気になってきてクーデターとか起こすんですよね。

加藤 朝彦

クーデター?


岩澤 利貢

何人かに「もうやってられません」って途中で練習をボイコットされたんです。でも帰るわけじゃなくて、体育館の隅で集まってるんですよ。それを見ながら、他の部員は練習を続けてて…。俺はボイコットした部員たちにどう接すればいいのか葛藤しながら、結局別に何も言わずに練習終わっちゃったんですよ。そしたら、次の日は何事もなかったかのように普通に練習に来てた。

加藤 朝彦

そういうのってどう接したらいいか分からないですよね。


岩澤 利貢

いま考えると、変に振る舞わなかったのがよかったのかなと思います。ボイコットした連中に対して、「ちょっと待てよ」とかも言わなかったんです。一切無視。内心はおどおどしてましたけどね。

加藤 朝彦

自分でどういうキャプテンだったなって思いますか?


岩澤 利貢

駄目なキャプテンだったと思いますよ。ある試合に負けたとき、誰のせいでもないんだけど、その時うまくできなかった奴のせいにしたことがあったんです。ミスしちゃうのは仕方ないのに「お前のせいで負けた」みたいなことを言っちゃったんですよね。それはよくなかったなと、今でもはっきり覚えてて。ちょっと人間としてあり得ないですよね。

誰からも「変わったね」と言われるくらいの新しい側面を見つけた。

加藤 朝彦

僕のなかでは、どちらかというと岩澤さんはリーダー気質があると思ってるんですけど、人見知りで引っ込み思案の性格だったというころと比べて、本来の自分はどっちだと思いますか?


岩澤 利貢

どっちが自分なんだろうっていうのは俺も分からないんですよね。両方いるなという感じです。人と話すのが好きな反面、ボーッとしていたいのもあるので…。でも、親は俺の引っ込み思案の姿をずっと見てきているので、今の感じを見るとすごい驚いていますよ。「え、こんな子だった?」みたいな(笑)。

加藤 朝彦

小さい頃に何かきっかけがあって引っ込み思案になったとか?


岩澤 利貢

そういうわけではないですね。もともと大勢の前では母親の後ろに隠れるようなタイプでした。父親は恐いというか短気だったので、「自分はキレないようにはしたい」みたいなのは子どもながらありましたね。

加藤 朝彦

反面教師にした感じですかね?


岩澤 利貢

そこは完全に反面教師にしていますね。でも、血は争えない部分はありますけどね。ムカッてくるのは早いほうだと思います。

ものづくりに目覚め、大学のカリキュラムにも関わる。

加藤 朝彦

そこから性格が変わっていくターニングポイントは? 間接キスは“ひとつのきっかけ”とおっしゃってましたが。


岩澤 利貢

そうですね。大学に入る時は中学とか高校の時とは考えられない性格が変わってました。友だちになれそうな人には自分から声をかけたりとかしてましたから。積極的に飲み会の仕切りとかもやっていたし。大学に入ってからいきなり変わったわけではないので、高校卒業から浪人時代くらいには徐々に変わっていったんだと思います。

加藤 朝彦

じゃあジワジワとした変化・・・サナギの中ではいっぱい変化が起こっているけど、見た目は変わらないみたいな感じですかね。


岩澤 利貢

そんな感じかもしれないですね。そういうのって周りから見ててもわからないですよね。


加藤 朝彦

わかんないですね。


岩澤 利貢

さっきの話でいうと、うちの父親を見ていても、「すぐキレる」みたいな感じだったから、「いないいないバア」をやっている姿は想像つかなかったんですけど、孫に対してやっているんですよね。


加藤 朝彦

知らなかった父親の一面ですね。


岩澤 利貢

そう。あと、「親父は人間関係とか上手くねえんだろうな」と勝手に思っていたんですけど、定年退職後に自分で仕切って友人たちとよく会っていたりするの見てると「なんか似てるな」っていうのがあるので…元々持っていた気質が徐々に芽生えていったのかもしれないですね。遺伝子には逆らえない(笑)

加藤 朝彦

(笑)。大学に入ってからは?


岩澤 利貢

大学はとにかく自分自身で楽しもうと思ってました。「積極的にやらないと損でしょ」みたいな感じでしたね。そのあたりは、いまと変わらないかなと思います。

加藤 朝彦

積極的に何かに関わったエピソードとかあります?


岩澤 利貢

入学したのが情報科学部という新設の学部だったんです。カリキュラムも一応作りましたという感じ。担当教授もそのカリキュラムに納得いっていないみたいで。すごく適当に授業をしているような気がして、ムカついたんです。だから「教授が考える良いカリキュラムにしてください」ということを率先して訴えたんです。「1年目だからお試しみたいなのは納得いかないんです。教授がやりたいカリキュラムがあるなら、それをやってください」と。実際にそれでカリキュラムが変わったものもありました。新しいカリキュラムを作っていくなかで、一緒に考えていくのは良い経験でしたね。

加藤 朝彦

自分が動くことで、大きな変化を経験したんですね。


岩澤 利貢

自分でやらないと変わらないですからね。流されたら損するという感覚はそのときに感じたことかもしれないです。大学生活はずっとそんな感じでした。

歴史に残るものを作りたい ── ものづくりへの芽生え

誰からも「変わったね」と言われるくらいの新しい側面を見つけた。

加藤 朝彦

社会人としてのファーストキャリアは?


岩澤 利貢

初めて就職したのは6,000人規模のSIerでした。情報系の学部ということでIT系の企業しか受けていなくて。いまでも視野が狭かったなと思っています。新卒って最大の権利じゃないですか。いろいろな業界に行ける可能性があったのに…。そこで、もし違う業界に入っていたら、いまとはまったく違うキャリアを歩んでいただろうし、別業界を見ていなかったのはもったいなかったと思います。

加藤 朝彦

そこでの経験はいまに活きていますか?


岩澤 利貢

エンジニアリングの経験は自分の根底にあります。そこから飛び出すと自分の強みがなくなってしまうと思っています。飛び越えたいと思ったこともありましたけれど、たぶん飛び越えられないし…。モノを作るっていうのはもともと好きだったんですよね。

加藤 朝彦

なるほど。モノづくりに興味を持ち始めたきっかけってなんですか?


岩澤 利貢

大学も本当は情報科学部じゃなく建築学科に行きたかったんです。高校生のころに家族で行った海外旅行で日本には無いような古くて大きい橋を見たときに感動したんです。そこで「こういう歴史に残るものを作りたい」って思ったんです。それが職業に対して初めて意識した瞬間ですね。

加藤 朝彦

へぇ。エンジニアからディレクターに変わっていったのはどのような経緯だったんでしょうか?


岩澤 利貢

2社目はWEB制作会社だったんですけど、最初はエンジニアとして入社したつもりでした。でも配属されたのはディレクションする部隊だったんですよね。そこでエンジニアの部隊に配属されていたら、多分そのままエンジニアになっていたと思います。ただ結果としてエンジニアリングも分かるディレクターという立場でいろいろな案件はできましたね。

加藤 朝彦

両方できるのは強みですね。


岩澤 利貢

そうですね。なかなかいなかったので。いろいろな案件をやってみて「受託よりも自分自身でビジネスを考えて作っていきたい」と思うようになり事業会社に転職することにしました。 そこで、次に行った会社で忍者になったんです(笑)

芽が出なくてもやり続ける

加藤 朝彦

噂の!(笑)前職はどんな会社なんですか?


岩澤 利貢

「忍者ツールズ」という個人向けのアクセス解析のサービスなどを展開している企業です。アクセス解析のツールではかなり老舗です。そこでアクセス解析の新規プロジェクトやアドサービスを作ったりしました。在籍していた間にローンチしたサービス数は一番多かったんじゃないかな。

加藤 朝彦

在籍している間にどれぐらい立ち上げをされたんですか?


岩澤 利貢

5年で8プロジェクトですね。

加藤 朝彦

半年に1回ペースぐらいで出している…新規事業立ち上げ屋さんですね。その時はどういうモチベーションで新しいものを立ち上げていかれたのですか?


岩澤 利貢

自分で考えたのもあるし、同僚が作りたいと言ったものを一緒に作ったのもあります。事業会社は自分たちで考えたものをアウトプットできるので、すごく楽しかったですね。

加藤 朝彦

そんななか、どのタイミングで忍者になるんですか?


岩澤 利貢

忍者になったのは確か入社2年ぐらい。そのとき担当していた新しいアクセス解析のサービスをどうPRするかということを社内で話し合っていたときに「せっかくなら注目されるようなことやろうぜ。せっかく“忍者”と名乗ってるツール出してるんだから忍者の服着て、背中にQRコード背負って歩くと、ちょっとバズるんじゃねえの?」と同僚たちで盛り上がって、街中を歩き回ったんです。

加藤 朝彦

すごい気合い入ってますね。結構それは話題になったんですか?


岩澤 利貢

全然話題にならなかったんです。バレンタインデー企画で「忍者にチョコをくれる人、大募集! 会社で待ってるよ!」みたいな…でも誰も来ない(笑)そのあとのホワイトデー企画で、「1個も貰ってないけどお返しあげます! マシュマロ欲しい人、ハチ公前に集合!」って。でも、待っていても誰も来ないっていう…(笑)

加藤 朝彦

(笑)。でも、それをどんどんやれるっていうのはすごいですね。


岩澤 利貢

いろいろやりましたけど、「合ってないな」と思うんですよね。そういうのをできる方って面白いことをやることが生活の一部になっているんですよね。頑張ってやるもんじゃないと肌身に感じました(笑)

加藤 朝彦

私生活までできるかって言ったら…みたいな。


岩澤 利貢

家から忍者服を着て通勤とかはしてましたけど、もっと突き抜けないとニュースにはならないなと思いましたね。「継続は力なり」だと思うんです。芽が出なくてもやり続けないと話題にもならないし、それが肌に合っている人がやり続けないと面白いものにはならないんだってことは痛感しました。忍者姿でLIGさんへも行きましたけど、彼らは完全に楽しんでるんですよね。そのときに「何が当たるか分かんないし、やり続けないと結果は出ないから、心を折らずとにかくやり続けることが大事」とおっしゃってて…気持ちが違いましたね。


加藤 朝彦

それは名言ですね。

誰からも「変わったね」と言われるくらいの新しい側面を見つけた。

課題感があれば、仕事に向き合える

加藤 朝彦

その後にサイカを選んだ理由やきっかけは?


岩澤 利貢

前々職のときから統計分析に興味があったんです。自腹で授業を受けたりしていました。そのときは、提案書を差別化するための手段として学んでました。やはりデータで説明できると説得力が違いますし。


加藤 朝彦

根拠を持たせられるのは統計とかデータの強みですもんね。

岩澤 利貢

その後、アクセス解析や広告サービスを作っていくなかで、膨大な数字に溺れちゃうことがたくさんあったんです。ユーザーの方もそうでしす、自分自身も「いったいどの数字を見りゃあいいの?」と分からなくなってくるんですよね。


加藤 朝彦

それは、あるあるですね。

岩澤 利貢

アクセス解析サービスの提供を通じて感じたことは「ユーザーは数字を見たいわけではなく、数字の裏のアクションを知りたいんだ」ということです。ターゲットとなるユーザー像を知りたいんだけど、単純に数字を出しているだけでは分からない。でも、例えばそこに統計的な技術があると、いままで提供できていなかった価値を出せるんじゃないかと考えていたんです。


加藤 朝彦

なるほど。


岩澤 利貢

でも、なかなか統計に詳しいメンバーがいなくてサービスに反映することができませんでした。そんななかでサイカのことを知り「これだ!」と思ったんです。だからマゼランは実体験から出てきた問題意識そのものなんです。

加藤 朝彦

岩澤さんが働くうえで大切にしているものって何ですか?


岩澤 利貢

とにかく良いプロダクトを作りたいですね。過去の経験から、どこかで妥協しちゃう部分ってあるんですよね。妥協しちゃうとプロダクトはへにゃっちゃうので、そこは信念を持って言うべきことは言ったほうがいいと思う。ただ、その信念が自分よがりになってはいけないんですよね。本当にクライアントのニーズなのかを常に振り返りながらプロダクトを作っていかないといけないと考えてます。

加藤 朝彦

良いプロダクトの価値基準というものは、自分自身がやりたいのではなく、お客さんのニーズに合っているかどうかということ。


岩澤 利貢

そうですね。そこはずらしちゃいけないなというのはあります。あと、いろいろなサービスを作ってきたなかで分かったことは“作れるプロダクトと作れないプロダクトがある”ということ。担当者が本当に課題感を持っているものかどうかで、プロダクトが成功するか否かっていうのはあるかなと思います。

加藤 朝彦

課題感があるからこそ、そこに向き合えますしね。


岩澤 利貢

そうですね。自分が体験したことのなかで解決したいと思えないとプロダクトとして深くなっていかないと思うんです。広告に課題感があったからマゼランには向き合えています。これが例えばロックホッパーだと無理だと思うんです。自分には営業をするなかで出てきた課題を解決したいというものがないので。

加藤 朝彦

岩澤さんが今後のキャリアを考えたとき、自分はこうなっていたいと思い描いているものってありますか?


岩澤 利貢

とにかくビジネスとして成功させたいというのはすごくあるんですよね。唯一、ビジネスとして成功させた事例があるんですけど、やってみたらたまたま爆発したみたいな感じだったんです。全然狙ってなかったので満足感があまりなくて…。だからマゼランは狙って成功させたいなっていうのはあるんですよね。

加藤 朝彦

成功体験できるかどうかはたしかに重要ですよね。


岩澤 利貢

失敗ももちろん大事だと思うんですけど、ひとつの成功体験を語れるか否かというのは、今後のキャリアパスにすごく影響があると思うんですよね。結局みんな似たような発言をするのなかで、大切なのは発言した方のバックボーンだと思うんですよね。苦労して成功させているサービスの話は重みが全然違うし、それによって周囲がどう動くかが変わってくるので、確固たる成功体験を自分自身で築きたいです。

受け身では絶対に才能は開花しない

加藤 朝彦

最後の質問をしたいと思います。岩澤さんは「才能開花」という言葉をどう捉えていますか?


岩澤 利貢

自分が大学と高校の間で人格が変わったように、いい意味で「変わったね」という新しい側面を見つけられるのが才能が開花している感じなのかもしれないですね。

加藤 朝彦

つまり今までの延長線ではないものに…。


岩澤 利貢

そうそう。「飛び越えたね」みたいな。「想像つかないんだけど、何があったの?」というのが訪れると、それは何かしら開花してますよね。

加藤 朝彦

じゃあ、例えば「成長したいんです。才能開花するために必要なことはなんですか?」みたいな質問をされた時にどうアドバイスします?


岩澤 利貢

難しいですね。仕事の面で言えば「頑張るしかないよね」としか言いようがなくて、とにかくアクションするしかないかな。

加藤 朝彦

「やり続けるから見えるよ」という感じ?


岩澤 利貢

受け身では絶対に開花しないので、積極的に動いていかないと。誰かから与えられるものではないですからね。ただ、それを得ようしたときに助けてくれる人がたくさんいるような会社にサイカはなっていたいなというのはありますね。

加藤 朝彦

なるほど。今日はありがとうございました。

インタビューを終えて

岩澤 利貢

改めて自分自身の人生を振り返った時に高校までの自分とそれ以降の自分の違いには驚く部分があります。自分自身何がきっかけで今の自分があるのかを振り返ったり、今の自分の行動の土台には何があるのかを定期的に考えるのはいいことだと改めて思ったインタビューでした。受け身ではなく自ら行動する!さらに人の才能開花も自ら積極的に動くことで支援する、そのためには自分はどうなったほうがいいかをサイカで突き詰めていけたら素晴らしいなと思える貴重な時間になりました。

とにかく“かっこいい男”になりたい。

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今回のインタビューは、ビジネスディビジョンの衣川。セールスマネージャーとしてプロモーション分析ルーツXICA magellan(http://xica.net/magellan/)の営業チームを引っ張っている。人とは少し違うキャリアを積んできた彼の言う“かっこいい男”とはなにか? 今回のインタビューでそこにある“想い”を知ることができた。

とにかく“かっこいい男”になりたい。

自分は自分でしか成長できないと自覚した幼少時代。

加藤 朝彦

自己紹介をお願いします。


衣川 高史

衣川です。いまはマゼランのセールスマネージャーとしてお客さまと向き合っています。

加藤 朝彦

衣川さんが仕事をするうえで大切にしていることってなんですか?


衣川 高史

社会人以前からずっと持っている信念に通じていて、“かっこよくなりたい”というのが根本にありますね。

加藤 朝彦

かっこよくなりたい?


衣川 高史

これはサイカアカデミーに参加して言語化できたんですけど、やっぱり「自信を持っていること」だと思うんです。根拠のある自信って何かの実績だから生まれた瞬間にはそんなものなくて、だからこそ根拠のない自信を持っているのが重要で、それを周りの人に与えらえる存在になるっていうのがかっこいいんじゃないかなと思っています。

加藤 朝彦

その考えを確立したきっかけとかあったんですか?


衣川 高史

それは当時所属していた早稲田大学広告研究会のチーム立ち上げのときの合宿ですね。広告研究会は4つの部門に分かれてて、幹事長の下に各部門のリーダーがいたんです。そのリーダーを決めるための選挙をそこでするんです。僕はマーケティングチームのリーダーに立候補したんですけど、満場一致じゃないとチームが立ち上がらないんです。

加藤 朝彦

それがきっかけだったんですね。


衣川 高史

そう。そこで「なんで俺がリーダーをやるんだっけ?」「俺ってどうなりたいんだっけ?」というのをひたすら考えたんです。そんななかで、ある先輩に「お前ってかっこつけだよな」と言われて。そのときに「あぁそうか。俺はかっこよくなりたいんだな」って気づいたんです。

加藤 朝彦

先輩の一言ですべてが整理ついたんですね。


衣川 高史

なので、僕はそこからずっとその信念を変えずに生きてきました。それは今の仕事のスタンスも同じです。結果を出したいって強く思うのは、その想いの根源には“かっこよくなりたい”があるんだと思います。

加藤 朝彦

衣川さんの話を聞いてて、想いが自己完結している印象があります。周りの影響を受けて固まっていく人が多いと思うんですけど。


衣川 高史

なんでそこまでなったのかは分からないんですよね。ただ、幼い頃から人に教わるのがすごく苦手だったんです。教わるっていうのが性格的に合わないんですよね。それで「自分は自分でしか成長できないんだ」って幼い頃から思ってて。自転車とかも勝手に補助輪壊して乗ってましたし。「俺、ひとりでできたんだぜ!」っていうのがかっこよかったんだと思います。

加藤 朝彦

普通に考えると最初は誰かに教えてもらったほうが、成長スピードが早いような気がしますけど。


衣川 高史

たしかに。でも、そんなこと一回も考えなかったですね。昔からやりたくないことは一切やらないんですよね。そこはすごく極端だなと思います。人より時間かかるなら人より長くやればいいだけなので。

加藤 朝彦

そのスタンスは本当いまも変わってないですね(笑)


衣川 高史

変わってないですね(笑)

加藤 朝彦

それってご両親の教育方針?


衣川 高史

どうだろ。でも、うちの家訓が「自力」なんですよ。だから、例えば友達が持っているおもちゃを見て、「これ欲しい」みたいなことってあるじゃないですか。でも、「人は人、うちはうち」が徹底されていて、「欲しかったら自分でなんとかしろ」というような家庭だったんですよ。

とにかく“かっこいい男”になりたい。

高校の担任の一言で広告業界を目指すようになった。

加藤 朝彦

中高のときもずっと同じような感じだったんですか?


衣川 高史

そうですね。なので勉強に興味持てなかったから部活ばっかだったし、それも捨ててヤンキーやったりとか(笑)

加藤 朝彦

進学の選択も自分ですべて?


衣川 高史

うーん。でも早稲田の付属中学に入ったので、そこはあんまり考えていなかったですね。ただ大学に進学するかはすごく悩んで。高3のときに成績も素行も悪くて「絶対に大学には行けない」って言われたんですけど、そのときの担任が「お前、電通行けば?」と言ってきて。電通のことなんて全然知らなかったんですけど、調べるうちに興味湧いてきて、それだったら広告の勉強できる専門学校に行こうと思ったんです。

加藤 朝彦

いまのキャリアにも大きな影響与える一言ですね。


衣川 高史

親を説得させるためにも何か実績残さないとと思って「電通論文」という学生向けの論文大会に応募したんです。当時はすごく単純だったから「それ獲ったら電通行けんじゃん!」って考えてて(笑)なんとか出したんですけど、箸にも棒にもかからない。

加藤 朝彦

甘くはなかったんですね。


衣川 高史

でも、僕に触発されたのか真面目な同級生数名がチームで論文書いてて、そいつら入賞したんです。それがすごく悔しくて。そいつらに負けたくなくてから早稲田の広告研究会に入りたいって思ったんです。

加藤 朝彦

高校の時から広告業界行こうって決めてたんですね。


衣川 高史

うん。単純に「電通かっけぇじゃん」って思ったからですけどね。お金持ってそうだし、モテそうだし…くらいの感じ(笑)

加藤 朝彦

広告研究会ではどんなことをやっていたんですか?


衣川 高史

企業から依頼を受けて学生の視点から提案するというようなことをしていました。そのなかでも一番は早稲田祭の実行に関わることが大きかったですね。ひとつの大きなコンテンツを主催して、企業から協賛金もらって、有名人をゲストに呼んだりして。そのなかで僕はマーケティングチームのトップをやっていました。

加藤 朝彦

そのころからマーケティングだったんですね。


衣川 高史

そうですね。電通論文でもマーケティングについて書きましたし、そのころから広告業界に行くならそっちだと思ってました。

加藤 朝彦

大学在学中は広告研究会ばっかり?


衣川 高史

ちょうどチームリーダーになったころに知り合いが働いていたキャバクラでボーイとしてバイトを始めたんです。なので、そのころは昼間は広告研究会、夜はキャバクラでバイトという生活でした。

とにかく“かっこいい男”になりたい。

人が人を使って人を呼ぶ商売で見えたもの。

加藤 朝彦

両方とも続けるのって体力的にもきつくないですか?


衣川 高史

キツイっす。でもどっちも楽しかったんですよね。実はそのころ、化粧品メーカーに就職したかったんです。それもキャバクラで働きながら「かっこよくなりたいとは?」を考え抜いた結果だったんです。

加藤 朝彦

そこはどういう理由だったんですか?


衣川 高史

結局、“かっこいい人”って自信を持っているんだと思うんです。その自信は「根拠がある自信」と「根拠がない自信」に分かれてるんですよね。

加藤 朝彦

根拠のあるなしですか?


衣川 高史

根拠って実績なんです。だから「根拠がある自信」って、それがあって初めて得られる結果論で、そんなの最初は誰もないじゃないですか。だから重要なのは根拠がないけど一歩踏み出せる自信なんだろうなって思うんです。

加藤 朝彦

なるほど。


衣川 高史

キャバクラで働いてて感じたんですけど、メイクの乗りとか肌のコンディションでキャストの接客って変わるんですよ。キャストは見られる商売なので。そこで実績とかではなく「自分自身の内面からくる根拠のない自信」ってすごく重要なんだなって気づいたんです。それによって売上が変わる。それを作れる化粧品ってすごいなって思って。だから僕は、より多くの人に化粧品できれいになってもらいたかった。「一歩を踏み出して、好きなことをやろうよ」という世界を作りたかったんです。

加藤 朝彦

そこまでなかなか観察できないですよね。


衣川 高史

そうですね。でも人を見ないといけない商売だったので。水商売ってすごく難しくて、“人が人を使って人を呼ぶ商売”なんです。だから目に見えないモノが正しい解答だったりして、そんなかで学ぶものは多かったです。

加藤 朝彦

いまやっている営業やコンサルも、もっと言えば広告もモノでは計れない定性的なものが多いですよね。そういうのにも影響ありますよね。


衣川 高史

その経験が活きてることはたくさんあるんですけど、そのなかでも特にお客さまとの距離の取り方は活きてます。クライアントの状況を察したうえで提案したりアプローチの仕方を変えたりするバランス感覚はそこで学びました。

加藤 朝彦

それってたくさん人と接する経験がないと身につかないじゃないですか。


衣川 高史

そうかもしれないですね。

加藤 朝彦

その鍛え方ってあるんですか?


衣川 高史

イメージできるかだと思います。その人のことをどれだけ考えたかによると思うんですよね。もちろん1万人のことを浅く考えて得られるものはありますけど、100人のことを深く考えていったほうが得られるものが多いと思うんです。なので人を好きになる力や人に興味を持つ力っていうのは大切かもしれないですね。

加藤 朝彦

それは昔から気をつけていたんですか?


衣川 高史

人の顔色を伺うことはしないような立ち振る舞いをするのが好きだから、周囲との距離感を把握するようにはしてたと思います。

ガチンコでクライアントと向き合う。

加藤 朝彦

マネージャーまで行ったお店を辞めるきっかけってなんだったんですか?


衣川 高史

辞めたきかっけは、僕が広告研究会のチームリーダーやっていたときの後輩です。すごく優秀なやつだったんだけど、入社した会社でベストルーキー賞を獲ったんです。それでセミナーで登壇したりもしていて、それを知ったときに単純に嫉妬したんです。こっちは高田馬場のお店で頑張ってるけど、彼はパブリックにもっと有名になってきてて。イラっとしちゃって(笑)

加藤 朝彦

負けず嫌いですね。


衣川 高史

その瞬間に気持ちが揺らいじゃったんです。ちょうど「店長ならないか?」と誘われてたんですけど、気持ち揺らいじゃったまま仕事できなくて…。人が人を使って人を呼ぶっていうバランスの商売で、それをまとめないといけない自分の判断基準がなくなっちゃったら絶対だめだって思ったんです。だったら辞めようって思って。頭下げてすべて断って、すぐに髪も黒く戻して就活始めました。

加藤 朝彦

そのときも就活はすべて広告業界を狙ってたんですか?


衣川 高史

全然。就活始めたのが遅かったので選択肢がほとんどなかったってのもあるんですけどね。
「ビッグになりたい」と思ったので、これから成長が期待できそうなベンチャーをいろいろ受けました。あとは超優秀な人しか雇いませんみたいなとこ。

加藤 朝彦

あ、新卒として就活だったんですね(笑)


衣川 高史

一応、新卒枠だったっぽいです(笑)キャバクラで働いてたことも全部言いました。7年も大学いたし、なにも隠す必要ないかなって。

加藤 朝彦

そこで前職の広告代理店だったんですね。


衣川 高史

そうですね。

加藤 朝彦

どのような業務を担当してたんですか?


衣川 高史

最初の2年間は新規営業をずっとやってました。そのあとは既存クライアントとの向き合いに変わりました。

加藤 朝彦

そこの仕事の仕方って全然違うんですか?


衣川 高史

違いますね。どういうクライアントと向き合うかにもよるんですけど、僕の担当していたクライアントは並走してサポートするんじゃなく、先導することを求められたんです。よく担当者と山に例えて話してたんですけど、「一歩一歩一緒に登ろうよ」じゃなくて、お互いにどんなルートで山頂まで登るのが良いのかを正面からぶつかり合ってたんです。だから「満足させるためにフォローします」みたいなことは絶対に許されなかった。

加藤 朝彦

すごく良い方と向き合えたんですね。


衣川 高史

ほんとそうですね。彼のおかげで統計を覚えたんで、そういう意味でも感謝してますね。

加藤 朝彦

そこからサイカに入社したきっかけは?


衣川 高史

単純に次のステージに行きたくなったっていうのもあるんだけど、お客さんの課題をより解決して「かっこよく」させることができる立場になりたかったんです。それを広告の、しかもウェブに限定した世界だと影響範囲が少ないので、よりクライアントにハッピーと届けられる環境に行きたかった。だから目的から寄り添って解決できるサイカを選んだんです。

加藤 朝彦

それはサイカではなく、他のコンサルティング会社でもできたんじゃないですか?


衣川 高史

うん。でも、それは自己完結で「無い」ってなってました。結局なにをしても正解を出すことはできなくて、でも成功させることはできるんです。

加藤 朝彦

なるほど!


衣川 高史

成功させるにはずっとそばで寄り添える立場じゃないといけない。そこは客観的な分析だけしてもだめで、コンサルタントという立場だと無理だと思ったんです。サイカはそれをツールとして提供することで内部でしっかりとPDCAを回すことができる。そこにパートナーシップを組んで改善の並走ができるのが魅力でした。

加藤 朝彦

それは前職のときの問題意識から生まれたことですね。


衣川 高史

そうですね。たくさん失敗したけど、並走してたからこそ少しづつ前進している感覚も共有できてたんです。それをもっと広い範囲で解決したかったんです。

とにかく“かっこいい男”になりたい。

夢を持つ大切さを伝えたい。

加藤 朝彦

じゃあ、今後、何か実現させたいことはありますか?


衣川 高史

個人的なものとしては、ふたつ道があって、起業するか学校を作りたい。

加藤 朝彦

学校?


衣川 高史

僕がまっすぐ生きてきたわけではないので、ドロップアウトした人をいろいろ見てきたんです。それは自分のせいもあれば家庭環境もあります。でも夢を持つことは誰でも平等にあるじゃないですか。それに対して一歩踏み出せないって思ってる子がたくさんいて、でもそれをサポートしてあげる環境が無いんですよね。そういう人たちに対してサポートしてあげる環境を作ってあげたい。夢へのモチベーションを保つことのできる場所を作りたい。

加藤 朝彦

その学校はおもしろいですね。ぜひサイカをうまく利用しながら実現させたい。


衣川 高史

やりましょう!

加藤 朝彦

結局、ドロップアウトした人もそうですけど、そうじゃなく、ただなんとなく生きてる人がほとんどじゃないですか。なんとなくいるけど、そこに居場所があるようでない人たち。そういう人たちにも夢を持ってもらえるようなサポートできるのはいいですね。


衣川 高史

そう。子どもにやるべきですよね。アメリカの中学生って夢をしっかりと語れるらしいんですよ。最終的にそうなれるかどうかは別で、しっかりと将来を考えながら生きるってモチベーションが全然違うと思うんですよね。日本ってそんなのあんまりないですよね。

加藤 朝彦

そこは自分のお子さんにもそう教育してるんですか?


衣川 高史

いやぁ。そこまでは考えてないです。でも武道はやらせたいですね。なにをするにも心を鍛えなければならないと思うんで。「やりたいことなに?」というのはずっと問い続けたいかなとは思いますね。

加藤 朝彦

起業という選択肢でも同じようなことをしたい?


衣川 高史

いや、それはただビッグになりたいだけなんで、どんな形かは分かんない(笑)

自信を持っている人を増やしたい。

加藤 朝彦

では、最後に衣川さんは“才能開花”をどう捉えていますか?


衣川 高史

才能開花している状態って、自分の根本で好きなことをやり続けられることだと思っています。それに対してまっすぐ進められているのがベストだと思うんです。なので例えば、『サイカはポジティブに3年でみんな辞める』みたいなことは面白いと思う。もちろん軸となる人はいると思うけど、サイカの業務をやりながら他のことをやったとしても、本業に支障がなければ文句も言われないし、働き方も自由だし。自分がやりたかったことと真剣に向き合って、結果的に3年くらいで円満に独立できるってすごくいいなって思ってて。

加藤 朝彦

入社のときに自分のキャリアプラン伝えて、それを実現させるためにサイカでこんなこと学びたいみたいなこと言える組織とかいいですね。


衣川 高史

うんうん、それもいいですね。もちろんサイカをデカくするのが夢だっていうのであればそれは素敵な夢ですし。

加藤 朝彦

それはそれで必要ですけどね(笑)


衣川 高史

まぁね。そういう働き方があるんだ、夢をいつまでも追ってても良いんだっていうのを示していけるような存在にサイカがなれればいいなと思います。スポーツ選手とかは夢を追い続けてかっこいいってなるけど、ビジネスマンってあんまならないじゃないですか。そういう夢を掴むのがかっこいいって思える人をどんどん作っていきたいですね。


加藤 朝彦

ありがとうございました。

インタビューを終えて

衣川 高史

読み返してみてぶっちゃけすぎたかなと不安ですが、ちゃんと人の意見は聞ける人間です!(笑) “関わる人に自信を与えられる”人間になるべく今後も頑張ります!

インタビューされた人


インタビューした人

新しいことを学びながら生涯エンジニアとして生きる。

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今回のインタビューは、プロダクトディビジョンの松山。先日先行リリースをしたプロモーション分析ツールXICA magellan(http://xica.net/magellan/ )のエンジニアとして、2015年8月にサイカに入社した。彼の根底にある家族への愛、そしてそれを原動力にどう仕事に向き合っているのかを聞くことができた。

新しいことを学びながら生涯エンジニアとして生きる。

身体が弱かったことで築かれた自分の根底。

加藤 朝彦

松山さんの人生における転機や、変化のタイミングについて聞かせていただけますか?


松山 哲也

子どもの頃すごい身体が弱かったことですね。

加藤 朝彦

変化のタイミングと思えるくらいだったんですか?


松山 哲也

はい。メチャクチャ弱くて、自家中毒という病気で、すぐに吐くんです。吐きすぎちゃって病院に行ったら栄養失調だと診断されて…。親としては「ちゃんと食べさせてるのに」ってすごい恥ずかしい思いをさせたらしいです(笑)

加藤 朝彦

そうだったんですね。


松山 哲也

なので、まず身体が弱いっていうのが自分の考えるベースになっているところがあります。人と同じ行動をしても多分駄目かなというのが根本にあるんですね。

加藤 朝彦

なるほど。


松山 哲也

試験の前日とかに「前の晩、徹夜をしたら大丈夫」みたいな人いるじゃないですか。体力がないから、それ絶対無理なんです。なので、常に人より先に準備しようというのがいろんな行動のベースになっています。

加藤 朝彦

なるほど。他にはなにかありますか?


松山 哲也

2つ目は、子どもの頃、父親にちょっとした嘘をついて殴られたことがあるんです(笑)

加藤 朝彦

どんな嘘だったんですか?


松山 哲也

脚立を使って写真を撮っていて、その脚立を僕がたまたま倒して壊しちゃったんです。そこで父親に詰問されて、「風で倒れた」ってウソを言ったんですよ。そうしたら思いっきり殴られました。母親に言わせると顔が腫れたぐらい殴られたらしいんです。

加藤 朝彦

厳しかったんですね。


松山 哲也

でも、それは正しい行動だったと感謝しているんですよね。体罰かしつけなのかってお互いの信頼関係なんだなと思っています。そのときに嫌われても後で感謝されたらいい、それこそが愛情かなっていうのをすごく思い出しました。もちろん、そのときはすごく泣いたらしいんですけどもね(笑)

加藤 朝彦

今になって感謝できるっていうのは、何かきっかけがあったんでしょうか?


松山 哲也

それは、自分の子どもが生まれたのが大きいです。殴るかどうかは別ですけども、しっかりと怒るべきときにどうしても機嫌を取っちゃうってあるんですよ。めんどくさいから。

加藤 朝彦

めんどくさい?


松山 哲也

例えば朝とかに怒ると出掛けるまでにプラス20分絶対にかかっちゃうんです(笑)そこは愛情を持って20分遅れても怒らなくちゃと思うんです。でも、なかなかそれも難しいんですよね。そこは父親に教えてもらった気がします。

加藤 朝彦

ご自身が父になって初めて気づいたことだったんですね。


松山 哲也

今すごく育児が大変なので、育ててくれた両親への尊敬は大きいです。子どもたちが一人前になったら、そのときにようやく親に追いつけたと思えるかなって思います。

新しいことを学びながら生涯エンジニアとして生きる。

松山 哲也

もうひとつは、大人になってから妹に感謝されたことがあったんです。幼稚園の頃に妹がいじめられたらしいんですが、僕が妹のクラスに行って「止めろ」って言ったらしいんです。

加藤 朝彦

お兄ちゃん、かっこいいですね。


松山 哲也

すごいかっこいいエピソードですが、全然覚えないんです(笑)20年ぐらいしてから「あれはうれしかった」って言われて、自分でも「よくやったな」と思います。

加藤 朝彦

あとから感謝されるのって嬉しいことありますよね。


松山 哲也

逆に全然自分が覚えてないけど、人を傷つけてることもあるじゃないですか。例えば、話していて「なんか嫌われてるかも」と思ったときは、僕の行動が何か気に障ったかもしれないし、逆に好かれてもたまたま何かいいことをしたのかなとも思う。でも、自分の行動を相手がどう思ってたか分からないわけです。それを考えると、人からどう思われるかってあまり気にしなくなったというか…まあそんなもんかなと“許容力”がついてきましたね。

加藤 朝彦

話を聞いてるなかで、他者との距離感をすごい大事にされてるなあという気がしたんですが、そこは意識しながら行動しているんですか?


松山 哲也

意識せざるを得ないところがあるかなと思います。

加藤 朝彦

というと?


松山 哲也

楽しいことも嫌なことも人間関係が影響してるじゃないですか。だから考えざるを得ないですよね、やっぱり。人間関係は相対的なものなので、“絶対的な自分”はないと思うんです。誰かにとって友達で、誰かにとって親で、誰かにとって子だっていう。要は人の関係が大事だなあって思いますよね。

加藤 朝彦

何かすごい哲学的ですね。そういうの考えたり、学んだりするのは好きですか?


松山 哲也

本は大好きです。学生のときはとにかく勉強を頑張ったんです。幼い頃から体力がなかったので、せめて勉強はくらいはできないとしんどくなるなって分かってたんで勉強は頑張りましたね。

加藤 朝彦

学生時代はずっと勉強漬けですか?


松山 哲也

高校まではそうでしたけど、大学はサークルばっかり(笑)

加藤 朝彦

どんなサークルだったんですか?


松山 哲也

テニスサークルです。

加藤 朝彦

運動のイメージは無いのに…(笑)


松山 哲也

ただ入ってみただけです。練習の最後の方にしか顔出さなかったですし、テニスする気ないっていう(笑)中高とずっと男子校だったんで女の子に飢えてたんですね(笑)

加藤 朝彦

(笑)大学ではどういうものを専攻されていたんですか?


松山 哲也

一応工学部で情報工学のコンピュータ管理を専攻してました。「オペレーションシステムが…」「メモリが…」「アルゴリズムがどうのこうの…」っていう世界。いまとなっては本当に面白い分野ですけど、当時はあまり好きではなかったですね。文系の授業もいっぱいあったし、もう一度大学に行きたいです。

加藤 朝彦

社会人になってから気づく大学の授業の面白さってありますよね。


松山 哲也

はい。そういうのはすごい悔しいです。

新しいことを学びながら生涯エンジニアとして生きる。

両親から受けた愛を、自分の子どもにも与えたい。

加藤 朝彦

ご家族のなかで一番自分の人格形成に影響を与えたのってどなただと思いますか?


松山 哲也

両親のどっちかでしょうけど…どっちだろう。でも、やっぱり父親かもしれないですね。家族想いなところは結構似ています。身体が弱いのも似てるし(笑)

加藤 朝彦

お父さんの家族想いなエピソードとかありますか?


松山 哲也

父親はあるとき「単身赴任して出世するか、今のまま働くか」という選択をしなければならないことがあったらしく、そのときに今のままを選んだらしいんですよ。

加藤 朝彦

家族と一緒にいたいから?


松山 哲也

そうそう。そう判断したらしいんです。それはすごいなって。男ならやっぱり普通だったら出世を選ぶと思うんです。しかも父の時代ならなおさら。その判断はすごい尊敬するし、僕にはその判断はできないなと思います。

加藤 朝彦

本当に家族と一緒にいることが大切だったんですね。お母さんとのエピソードとかありますか?


松山 哲也

母もやっぱりすごいなって思うこともあります。中高は寮生活だったんですけど、大学受験のときに、週に3回くらい学校にバイクで迎えに来てもらって塾に送ってもらってたんです。自分もパートで働きながら。それは自分が親になって改めてすごいなって感じます。いま僕も自分の子を習い事に週1回連れて行ってるんですけど、それでも大変。週3とか無理っすよ(笑)

加藤 朝彦

そういう思い返す機会っていうのはお子さんが生まれたのが大きいですか?


松山 哲也

はい。子どもが生まれてから実家に帰って話すときにそういう話をしますね。ありがとうって。生まれてみないと本当のありがたみは分からないなって思います。

加藤 朝彦

なるほど。じゃあ、いま優先順位も仕事と家族でいうと…?


松山 哲也

家族のために仕事。家族を養うために仕事ですね。そのために必要なことは一生懸命やります。別に億万長者とかはならなくてもいいですけど、子どもに自分の進路を自由に選ばせてあげたい。行きたいのに「お金がないから無理」みたいなことは絶対にしたくないです。

加藤 朝彦

松山さんは、常に子どもに意識が向いてるというか、子どもにどう影響があるかを考えているんですね。


松山 哲也

そうですね。子どもの幸せが自分の幸せでもあるので。

加藤 朝彦

そんななかベンチャーに行こうって思ったのは…決めてたんですか?


松山 哲也

できればベンチャーがいいなと思ってましたね。前職で大企業の良いところも悪いところも見たので、じゃあ次はベンチャーだったらどうなんだって知りたかったのはあります。人生一度きりなので、いろんな体験をしたいですし。

加藤 朝彦

そこから、サイカに入るきっかけは?


松山 哲也

統計分析に関わりたいなと思ってたんです。それで、統計に関われそうなベンチャーを探していたら、サイカに出会ったんです。

加藤 朝彦

統計に興味を持ったきっかけは何ですか?


松山 哲也

5年くらい前にグーグルのHal Varianさんが「これからの10年で魅力的な職業は統計分析になる」と話している記事を読んだんです。それがきっかけで統計に興味を持っていました。そしたらちょっとブームが来たので「これは間違いない」と思って勉強し出しました(笑)

加藤 朝彦

興味を持っても専門的なのでなかなか手を出せない分野のように思います。


松山 哲也

そうなんですよね。結構数学が必要なんです。だから昔学んだこと思い出しながら勉強して、「あ、数学好きだったな」って感覚思い出してきましたね。

新しいことを学びながら生涯エンジニアとして生きる。

みんなが気づかないうちに幸せになっているくらいがちょうどいい。

加藤 朝彦

ご自身のことを考えたときに、今後のキャリアはどのように考えていますか?


松山 哲也

いま思ってるのは、「生涯エンジニア」なんです。ウェブとかってすごい変化が早いじゃないですか。それについていくのは大変なんですけど、新しいことを学ぶのは嫌いじゃないです。だから、そういう意味では自分には向いているのかなと思っています。

加藤 朝彦

例えば、ウェブ業界の成長が止まったとしたらどうするのかなって……?


松山 哲也

どうするんでしょうね(笑)何か探すんじゃないですかね。

加藤 朝彦

新しいところに飛び込む?


松山 哲也

なんか世の中の役に立ちたいですよね。教育とか、医療とか、農業とか。名刺の裏(※)に書いたんですけども、少しずつみんなが幸せになれるような仕事ができれば自分も幸せだなと思いますよね。例えば「みなさんの吸っている空気が1%きれいになった」とかってすごいいいなと思います。誰も気づかないけど、空気きれいになったなあって(笑)


※ サイカでは「私の才能開花」というテーマで自分のチャレンジしいたいことを宣言し、名刺に記載しています。

加藤 朝彦

そこで「俺がやったんだよ」みたいな感じにはならないのが松山さんらしいですね(笑)


松山 哲也

昔から全然ないです。あまり地位とか名誉とかにこだわりはあまりないので、草葉の陰からそれを覗くぐらいでちょうどいいです(笑)

加藤 朝彦

エンジニアには自分の好きな開発言語があって、それを使って問題解決したいという方もいらっしゃると思うのですが、松山さんのお話のなかにそういった話が出てこないですね。


松山 哲也

そうですね。

加藤 朝彦

それよりも、周りの人が幸せになってほしかったから、それを達成するために技術を使うという感じなのでしょうか?


松山 哲也

はい。“役立つ”という意識が先にきますね。それ自体が楽しいから目的でもありますけど。両方あるかな。まあ、20代の頃は自分のことばかり考えて遊んだりしてましたけど(笑)

加藤 朝彦

もう自分が満たされちゃったって感じなんですかね。


松山 哲也

そういう情熱も大事だと思うし、またどこで火が点くかもしれませんけど…。今のところは、やっぱり自分より子どもかなっていう気はします。

加藤 朝彦

仕事の面だけではなく、子どもに対しての夢ってありますか?


松山 哲也

うーん。難しいんですよね。何か「こうあってほしい」っていう枠がそもそも正しいか分かんなくて…。例えば、叱ったときに、言うことを聞いてくれたら楽ですよね。でも、「親の怒ってるのをそんなに素直に聞かれても」っていう思いも若干あるんですよ(笑)

加藤 朝彦

その葛藤はすごそうですね。


松山 哲也

反抗したりとか「嫌だ」とか…それぐらいの元気があったほうがいいかなとか思いますよ。完全に親の枠に当てはめたいとは思ってないんです。はみ出すぐらいがいい。あまり品行方正になってほしいとも思ってないです。

人が変わるためには巡り合いが大切。

加藤 朝彦

最後に、サイカが大切にしている「才能開花」という言葉は、人それぞれで捉え方が違うと思いますが、松山さんはどう捉えているんでしょうか?


松山 哲也

案外、“縁”とか“巡り合い”とかじゃないかなと思っています。人って何かのきっかけで誰かと出会って話して、新しい観点を得たり可能性を知ると思うんです。「俺は才能開花するぞ!」ってするもんじゃなくて、そういう縁なのかなっていう気はしていますね。

加藤 朝彦

人やモノの縁を基点に変わっていく。


松山 哲也

そう。新しい考え方とか、そういうことなんじゃないかな。新しいモノに出会ったときに、それをすっと受け入れることができるのが才能開花なのかなと。

加藤 朝彦

なるほど。


松山 哲也

あと信頼関係じゃないですかね。僕が父に叱られたことを10年後に感謝しているように、本人にとって厳しいことに向き合うことで得られるものもあると思います。その試練を与える立場になったとき、どれくらい愛情を持っているかというのもあると思います。本当に愛情を持って向き合っているのか、「俺が嫌だからお前やれ」でという感じでやっているのかで違いますよね。そのときにどれくらい信頼関係があるのか、というのがとても大事ですよね。


加藤 朝彦

なるほど。今日はありがとうございました。

インタビューを受けてみて

松山 哲也

インタビューの間ずっと、楽しくお話させて頂き、あっという間に終わってしまった感じでした。日々、自分の年齢と今現在自分が置かれているフェーズ(今は育児中心)を考えることが多いのですが、今回改めて、自分が何をしたいのかも少し分かりましたし、今後は周りの方たちと刺激を受け合いながら、残りの人生を最後まで楽しめたらな、と考えています。

インタビューされた人


インタビューした人

仕事してるというよりは、遊んでる感じ

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今回のインタビューは、プロダクトディビジョンの嘉悦。営業支援分析ツールXICA rockhopper(http://xica.net/rockhopper/)のエンジニアとしてサイカにジョインした。幼いころからプログラマーに憧れていたのは、彼が育った環境にあった。

仕事してるというよりは、遊んでる感じ

伸び悩んだときに、お互いに支え合いたい。

加藤 朝彦

嘉悦さんが今までの人生歩まれてくるなかで、影響を与えたと思うできごとを教えていただけますか?


嘉悦 誠之

両親が自営業をやっていたんですが、たまたま父が出かけているときにお客様がいらっしゃって。当時は子どもだったので、無邪気に父の真似をしてお客さまにセールストークをしたら商品を買ってくれたという経験があって(笑)その経験がいまの考え方に大きく影響を与えてるんですよね。

加藤 朝彦

いまの考え方とは?


嘉悦 誠之

言ってしまえば当たり前なのですが、「価値はお客様が決める」という考え方です。お客様が納得するもの、お客様が本当に使えるものを作りたいという想いがあるのですが、それは、その経験があるからです。

加藤 朝彦

貴重な経験ですね。


嘉悦 誠之

もうひとつは、社会人になって、プロジェクトを回していくなかで、当時お世話になった方から「梯子をかけ合っていこう」ってアドバイスされたことがあったんです。

加藤 朝彦

梯子をかけ合う?


嘉悦 誠之

その方は社内評価のコツ的な意味で言ったらしいですけど、僕は「お互いに成長を支え合おう」と解釈したんです。そこから、自分やまわりの人が伸び悩んだときに、お互いに支え合える環境ができたらいいなとずっと思っています。

加藤 朝彦

どうして意図とは違う解釈ができたんですか?


嘉悦 誠之

その方は「組織のなかでどう出世していくか」ということを考える、きちんとした方だったとんですが、僕はあまり組織の中での出世欲のようなものがないんですよね。常に「作る側の人間でありたい」と思い続けているので。良いもの作ったり、スキルが身に付くということは、僕のなかでは出世と等価なんです。開発者としてどう“梯子をかけ合えるだろう”と考えたときに、その答えがスキルアップしたいという結論だったんですよね。

加藤 朝彦

なるほど。


嘉悦 誠之

あともうひとつは、東日本大震災が起こったときですね。当時在籍していた会社でもほとんど人が出社できない状態だったんですが、上司からディザスタリカバリのために、即日GoogleAppsを導入して欲しいと言われて。当時在籍していた会社の規模を考えると、どうやっても何ヶ月も準備が必要な作業なんですけど(笑)でもチームや社員が一丸となって、なんとかやり遂げたとき、人間やればできるんだなっていう感覚になりましたね。

加藤 朝彦

ニーズに応えるために、チームで力をあわせる経験だったんですね。


嘉悦 誠之

そうですね。なので、まず第一にお客さんが納得できるものを作る。それをみんなと一緒に一緒に成長しながらやっていきたいなと思っています。

仕事してるというよりは、遊んでる感じ

幼い頃からエンジニアになりたかった。

加藤 朝彦

ファーストキャリアからずっとエンジニアなんですか?


嘉悦 誠之

そうですね。僕は、小学生からずっとプログラマーになりたいと思い続けていました。

加藤 朝彦

プログラマーになりたいと思っていたのは、なにかきっかけがあったんですか?


嘉悦 誠之

父が機械好きで、無線機器とかが部屋に転がっているような趣味人だったんです。そのなかにあった雑誌でパソコンが特集されてて。何やら面白そうなことができるぞ……と。それで、父にパソコンが欲しいと話したら「俺も欲しかったから買ってやる」と言ってくれたんです。ちょうどWindows95が出たくらいの時期でした。

加藤 朝彦

当時はパソコンでどんなことしてたんですか?


嘉悦 誠之

当時、まだインターネットは普及してなかった頃なので、ネットワークといえば、『パソコン通信』と呼ばれるものがあったんですが……。電話回線を使ったサービスですね。その中で、チャットのような、遠く離れた人と文字で話せる、『リアルタイム会議』というサービスがあったんです。すごく感動してのめり込んじゃって、電話代を使いまくって怒られました(笑)ただ、それがきっかけで人と人をネットワークでつなぐものを作りたい、とはずっと思っていました。

加藤 朝彦

そこからずっと、ずっとエンジニアの勉強をしてるんですね。


嘉悦 誠之

勉強というか…もう、超遊んでましたね。とにかく面白かったんで、ずっと遊んでたいなって思ったっていう感じですか(笑)

加藤 朝彦

今も感覚としては、そういう感覚なんかあるんですか?


嘉悦 誠之

そんな感じですね。もうパソコンで仕事してるというよりは、遊んでる感じ(笑)

加藤 朝彦

エンジニアを職業として意識したのはいつぐらいですか?


嘉悦 誠之

ちゃんと意識したのは20歳くらいです。

加藤 朝彦

そのきっかけは?


嘉悦 誠之

高校三年生の時に父が亡くなってしまって、それから2年間くらい、家庭の事情などで何もできなかったんです。ようやく落ち着いたころに「そろそろ就職しないと、食っていけんな」と思って(笑)たまたま親戚のおじさんが地方のSIerをやっていたので相談しに行ったんです。そのときに「やりたいこと決まってるんだったら、早く就職しちゃったほうがいい。君がやりたい仕事は大学に行かなきゃできない仕事でもないし、時間がもったいない」とアドバイスをもらって、良さそうな専門学校を紹介してくれたんです。「よし、そうしよう!」と思って問い合わせたら、その日が願書締切日だったんですよ(笑) ギリギリでなんとか入学させてもらいました。

加藤 朝彦

ものすごい縁ですね。


嘉悦 誠之

そうなんですよね。そのあとのキャリアでも本当に縁には恵まれてたと思います。

仕事してるというよりは、遊んでる感じ

まわりに作れる人がいないなら、僕がやる。

加藤 朝彦

やっぱり人生においては、お父さんの影響は大きいですか?


嘉悦 誠之

はい。父がなんでも自分で作る人だったんです。だから自分で作るのが当たり前と思ってました。幼いころに「ミニ四駆でレースしたい」って言ったら、おもむろにベニヤ板と木の板でジャンプ台までついてるコース作り始めて(笑)

加藤 朝彦

すごいですね。自分で欲しいものがあったら作ればいいというのはそこからきてるんですね。


嘉悦 誠之

ただ一方で、何でもかんでも自分で作る必要はなくて……。例えば、ロゴが作りたいんだったら、デザイナーに作ってもらえばいい。でも、デザイナーがいないなら自分で作るという感じですね。折角上手い人が居るなら、その人に作ってもらえばいいや、と。

加藤 朝彦

プログラミング以外でも何でもできるってことですね。


嘉悦 誠之

できるというか、必要なことで、自分の興味があればやってしまいますね。特に上手くは無いですが(笑)

加藤 朝彦

ベンチャー向きの性格ですよね。


嘉悦 誠之

「周りが誰もやれないなら、とりあえずやってみようかな」って思っちゃうんです。やってみて上手くいかなかったら誰かを頼ればいい。ベンチャーでの経験が長いので、それが当たり前になってます。

加藤 朝彦

嘉悦さんのなかで、やりたいかどうかの価値基準ってなんなんですか?


嘉悦 誠之

楽しいかかどうかだと思います。

加藤 朝彦

なるほど。もうちょっと掘り下げて、どういうことが楽しいと思うんですか?


嘉悦 誠之

意味が見出せない作業は全然楽しくないです。逆にその作業に意図があるならある程度楽しいと思っちゃうんですよね。

仕事してるというよりは、遊んでる感じ

技術的なポリシーを持たないことでエンジニアとしての幅を広げた。

加藤 朝彦

サイカに入社されたきっかけっていうのは何だったんですか?


嘉悦 誠之

もともと医療関連のBIツールを開発しているベンチャーにいたこともあって、データをビジュアル化することに興味があったんです。その時、ソフトウェアで世の中が効率化されていくのは面白いなと思ったんです。だからサイカも面白いに違いないと思ったから(笑)

加藤 朝彦

入社前、サイカのここを解決できるのでは、とかイメージされてましたか?


嘉悦 誠之

数学はあまり得意ではないので、統計に関してはこれから勉強しないといけないと思ってます。ただ、技術的な課題とかでお手伝いできそうなとこはたくさんありそうだな、と。

加藤 朝彦

なるほど。技術的なところでのポリシーとか、何か大切にしていることはあったりするんですか?


嘉悦 誠之

ポリシーを持たないことがポリシーです。

加藤 朝彦

ポリシーを持たないのがポリシー?


嘉悦 誠之

この開発言語が大好きだからそれしか使いたくない、というのは持たないようにしてるんです。それぞれの言語には適した活用方法があるので、技術的な取捨選択を幅広くするために、特定のものに固執しないというのをポリシーにしてます。

加藤 朝彦

エンジニアリングに固執しないというのも同様の理由ですか?


嘉悦 誠之

そうそう。最終的にお客さんが喜ぶものができればどんな形でもいい、と思っているので、こだわりを持たないことが一番いいと思ってるんです。

加藤 朝彦

そう思うようになったきっかけってありますか?


嘉悦 誠之

ベンチャー業界にずっといるので、お客さまとの距離が近かったこともあり、反応がダイレクトに届いてたんですね。そんななかで、凄く頑張って工夫したところでもあまり必要とされない場面や、逆に五分くらいでちゃちゃっと作った物で大感激された場面も多く見てきたんです(笑)そういう経験をすると「やっぱり、価値決めるのは僕じゃないんだな」っていうのは痛感しますよね。

加藤 朝彦

そのなかでも、エンジニアには譲れない技術的なこだわりがある方はたくさんいらっしゃると思うのですよね。嘉悦さんはそうじゃなかったんですね。


嘉悦 誠之

僕はそうじゃないですね。だから、ある意味エンジニアじゃないのかもしれないですね(笑)

加藤 朝彦

そんななかでこだわっている部分はどこですか?


嘉悦 誠之

作った物を価値あるものにしたい、というところですかね。

加藤 朝彦

嘉悦さんはエンジニアリングをどう捉えてますか?


嘉悦 誠之

エンジニアリングって、誰かの課題を解決するためにあると思っています。だから、サイカの名刺裏にある『私の才能開花』という項目(※)にも、「課題に向き合う」というのを書いたんです。僕自身は、才能の定義を「何かに向き合い続ける力」だと思っているので、まずは向き合い続けるものを決めることが才能開花に繋がると思っています。エンジニアリングが向き合い続けるものは『課題』だと思っていますので、お客様にちゃんと価値あるものを提供したい、と意識してます。


※ サイカでは「私の才能開花」というテーマで自分のチャレンジしいたいことを宣言し、名刺に記載しています。

加藤 朝彦

そこで内側じゃなく外に向いたというのは、嘉悦さんのキャラクターなのかなって気がします。


嘉悦 誠之

ああ、なるほど。多分、自分の課題を解決するのが趣味で、人の課題を解決するのが仕事じゃないかなと思うんで。だからじゃないですかね(笑)

加藤 朝彦

なるほど。確かにそうですね(笑)


嘉悦 誠之

自分の課題は自分で解決すべきものであって、それはお客さんには関係ないので。お金をもらわないところでは自分の趣味全開でいいと思うんですよ。ただ、仕事では、自分の趣味を全開にしてしまってはあとで自分が後悔しますからね(笑)

加藤 朝彦

ちなみに、仕事以外で取り組んでいることはりますか?


嘉悦 誠之

ありますよ。仕事ではPython使ってますけど、個人の趣味ではRubyを改めて学習し直してるところです。

加藤 朝彦

それは、仕事で使ってない技術を学びたいみたいなことなのでしょうか?


嘉悦 誠之

ひとつのことに集中して取り組めないだけじゃないかなと(笑)

加藤 朝彦

(笑)そこは単純に好きだから、楽しいからっていうところなんですかね?


嘉悦 誠之

多分、そうなんじゃないですかね。ただ本当に気が向かないとやらないですけどね。単にお家で寝てたいっていうときが続いたりしてて、ふとした拍子に何かをやりたくなったら、突然やり始める。

人生は一寸先が闇…と思うようにしている。

加藤 朝彦

個人的に学ぶ開発言語は、将来の自分のキャリアを考えて選んでるんですか?


嘉悦 誠之

自分のキャリアを考えた時に、老人になっても働き続けられる仕事をやっていたいというのはあります。そのために基礎力はつけておきたいし、頭は動かしておきたいですね。だけど、人生って一寸先は闇なので、そこを真面目に考えても計画通りにいくかどうか分からないじゃないですか。そういう意味で潰しが効くようにしておこうかなとは考えることはありますよ。

加藤 朝彦

一寸先は闇っていう言葉は、なかなか普通には出てこないですよね。


嘉悦 誠之

やっぱり父を高校生のときに亡くしているからだと思います。亡くなった後で母から聞いた話ですが、父が昔から大事にしてた酒があったらしいんです。それは僕が成人したときに一緒に飲もうと思ってたものだったらしいんですが、その機会は無かったんですよね。それを実感したからこそ、「人間はいつどうなるか分からない、なら今やりたいことが大事だ」って思うんです。

加藤 朝彦

だからこそ、ほんとに“今”なんですね。


嘉悦 誠之

そうですね。でもまあ、常に全力を傾けられてるかどうかって言われると、どうですかね?僕はさぼり性で浮気性なので、そこまで傾けられてない気がします。とはいえ、あんまり先のことを考えても、鬼が笑うだけなので。先のことは真剣には考えてないようにしてます。

加藤 朝彦

ガッチガチに設計したところで、どうなるんか分かんないよねみたいな感じですか。


嘉悦 誠之

だから、フレキシブルな設計や、柔軟なポリシーが大事。つまり、ポリシーを持たないようにしてます、って話に戻るんですけど(笑)

加藤 朝彦

そこにつながってくるんですね(笑)


嘉悦 誠之

そうそう。

加藤 朝彦

不確定要素があっていいよね。それ、当然だよと。


嘉悦 誠之

そう。だから、不確定要素にも耐えられる、シンプルな設計をしないといけないですよね(笑)


加藤 朝彦

なんかすべてがそれでつながりましたね(笑)ありがとうございました。

インタビューを受けてみて

嘉悦 誠之

あまり自分自身の人生を振り返ったことは無かったのですが、改めて尋ねられると今までもやっと想っていた者が整理できました。私にとってのコンピュータは、一生「下手の横好き」という感じで、先達からすれば、とてもとてもプロフェッショナルからはほど遠いのですが、これからもお客様に役立つモノが作れたら良いなという思いを新たにしました。

インタビューされた人


インタビューした人

自分の才能開花を波及させたい

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今回のインタビューは、フロントエンドエンジニアの福田。コーポレート側のエンジニアとして、サービス制作など情報発信に携わる。自分探しの旅をしていた20代から、ライフワークと呼べる仕事に出会うまでの変化が興味深い。自由でありたいと願う気持ちと組織を自分事で考える姿勢、一見相反する価値観を持ち合わせている彼の、大切にしている思いを聞いた。

自分の才能開花を波及させたい-03

母の入院がウェブ開発にかかわるきっかけに

加藤 朝彦

今の仕事をされるようになった大きな出来事って?


福田 守

エンジニアとしてウェブ開発に携わるようになったきっかけは、20代後半のときに母が入院したことでした。そのときに、家族のいる九州に戻って再スタートを切ろう、と決断したことが一つのきっかけです。偶然、都内にあるオンラインゲームプラットフォーム大手の子会社が福岡にあって、そこで初めてエンジニアとしてウェブと関わらせてもらえることになりました。

加藤 朝彦

20代のときに東京にいらっしゃったときはエンジニアではなかったんですか?


福田 守

どちらかと言うとアルバイトやフリーランスみたいな感じで、なんとなくウェブの制作をしている人というか。ウェブデザイナー兼コーダーみたいな感じでした。

加藤 朝彦

もともとウェブデザインをやりたいと思ったきっかけは?


福田 守

望んでいたというより、それしかできなかったというほうが正しいですね。中学を卒業して、家業を手伝いながら趣味でイラストを描いたり、デジタル上で表現していたんですけれども、そのときに発表する場としてウェブサイトを作ったのがウェブとの出会いでした。その後、奥を深めたくなって専門学校に進学をして、2年ほどソフトウェアの扱い方やデザインの基礎的なところを勉強したんですけれども。ゲームデザイナーとかグラフィックデザイナーとか、自分の望む未来は当時実力不足で切り開けなかった。そのときに自分の持っている特別な専門性がウェブ制作の技術だったので、それを選んだ、という感じですね。

加藤 朝彦

専門学校を卒業してすぐ東京に?


福田 守

ではないです。近畿や中国、関東など転々としてますね。いろいろたどって結局、福岡に…。

加藤 朝彦

お母様の入院をきっかけに?


福田 守

そうですね、母の入院という出来事があって、九州の地に戻って再スタートを切りました。自分でも流れ者というかフラフラしていて、詳細な記憶が抜け落ちてるところもありますね。

加藤 朝彦

順番どうだっけみたいな?


福田 守

母の入院があるまでは自分の人生を真剣に生きていなくて、知らないうちに忘れちゃってるところが結構あります。逆に言うと、それ以降のことはすごく覚えてるんですよ。

加藤 朝彦

お母様が入院されたことが、それだけ強烈にいろいろ考え直すきっかけだったんですね?


福田 守

そうですね。20代の頃は自分探しの旅みたいな感じがあったんですが、あまり自立できていなくて。仕送りとか余計な負担をかけてしまったから、入院して手術するところまでなっちゃったのかな、とすごく反省しましたね。それまでは母も父も割と元気で。手術を受けて、何カ月も入院してリハビリも必要です、となったときに初めて、両親が健在なこと、産んで育ててもらったことへの感謝を認識するようになりました。そこで初めてきちんと自立しようって気持ちが芽生えたのかもしれないです。

自分の才能開花を波及させたい-02

エンジニアリングがライフワークに

加藤 朝彦

東京に出てくるきっかけってなんだったんですか?


福田 守

福岡でお仕事していたときに、マークアップエンジニアからフロントエンドエンジニアとステップアップしていって、成長する機会もたくさんいただいたんですけれども、自分が長く携わっていたサービスがある転換点を迎えることになり、行き詰まりというか閉塞感みたいなものを強く感じるようになって。30歳っていう節目の年齢も間近だったので、いろいろ考えた結果、一度外に目を向ける決断をしました。ただ、自分のライフワークっていうきっかけを与えてくれた事は、今でもすごく感謝をしています。

加藤 朝彦

そこの会社で、エンジニアリングが自分のライフワークだって思えたきっかけみたいなことがあったんですか?


福田 守

ありましたね。入社した直後に東京の本社に出張させてもらえる機会があったんですけど、そこでの人との出会いが大きかったです。皆さんこだわりを持ってすごく熱心に仕事されていて。あとは人を育てようとするっていうんですかね。

加藤 朝彦

そういう環境に身を置いて仕事することで、エンジニアっていう職業が楽しくなって、これはライフワークだと思えた?


福田 守

そうですね。人を育ててくれる環境にいられたことや、メンターのエンジニアの方がいらっしゃったこと。あとは自分の手で自分の内の世界をアウトプットするところが、イラスト、創作活動と一緒だなと気付くことができたっていうのも大きかったです。

加藤 朝彦

それまでウェブサイトを作っている間は、自分の手を通して自分の内のものを外に出すっていう感覚はなかったんですか?


福田 守

なかったですね。お客さんが希望するものに合わせて形を作って、それを確認してもらって、OKだからそれを作る、みたいな。要はウェブの制作ではあったんですけれども、自分事ではなかったというか。

加藤 朝彦

それが自分事になるタイミングってあったんですか?


福田 守

会社組織を自分事化することは、実家が自営業でお店をしていてよく手伝っていたので、組織と自分の仕事に対して、境界がもともと薄いのかもしれないです。会社の仕事は自分の仕事、働くことイコール自分事、みたいな。

加藤 朝彦

それはご両親の姿を見てるからこそ・・・?


福田 守

そうですね。そういう下地があった上でいろいろ経験していくたびに、会社だとなんだかうまくいかないんですよ。組織に対して自分や自分の仕事を評価してもらいたい気持ちが強くあって。大きな組織というと、大体そこで働く人たちは一つのピースとして見られがち。その人が見られるときは、どちらかというとその人の能力やスキルで、その人のバックグラウンドや内面ってあんまり重要視されないと思うんです。そういったところで空回りがあったのかなと今は思いますね。

加藤 朝彦

普通の企業にいたらそういう思いは実現されないですよね。それで東京に出てきて、サイカは2社目ですか?


福田 守

SIerの会社のあとSAPの会社に行って、サイカなので3社目ですね。

加藤 朝彦

そこでの変化っていうのは?


福田 守

ありましたね。福岡から上京して最初にお世話になったSIerの会社はウェブサービスやネイティブアプリを幅広く開発していて、それまでに無い新しい価値を自分たちで作っていくというビジョンに共感して入社を決めたんですが、そのアクションがなかなか起きないんですよ。初めは目を輝かせて変革するために行動を起こしていた人たちも、気力とともにその輝きがどんどんなくなっていって。そういった閉塞感が漂う状況で、果たして自分はこういうことするためにここに来たのかって考えるきっかけがあり、いろいろ考えた結果、自分の成長のためにSAPの会社に転職をしました。

閉塞感から次のステップへ

加藤 朝彦

閉塞感があるからこそ次のステップへという話は、福岡から東京に出てきたときもありましたよね。そう思うに当たって、自分の中で大事にしてるものはありますか?


福田 守

僕はもともと20代の自分探しの旅もそうですが、自由でありたいというのがまず一つあります。閉塞感というか、自由でない状態がすごく苦手なんです。そこにとどまる理由が見当たらないと判断をしたときに、外に目を向けるという感じですかね。

加藤 朝彦

なるほど。その自由でありたいっていう気持ちと、先ほどの会社組織を自分事化にするってことって、一見対立するような感覚なのかなと思うんですけど、それを両方持ち合わせてるっていうのは結構、珍しいなと思ったんですよね。


福田 守

自分の仕事が自分の組織の仕事であるからこそ、自分が自由であってもそれは組織の仕事というか。自分イコール組織で、ちっちゃな個人事業主というか。

加藤 朝彦

会社の中に福田さんっていう会社があるような?


福田 守

そんな感じです。なので、自分は自分の組織として、自分の仕事をしているって感じでしょうか。

加藤 朝彦

なるほどって思うことがたくさんありました。


福田 守

変な性格ですよね。

加藤 朝彦

そこで、またSAPの会社でいろいろ思うことがあって、次サイカにするという?


福田 守

はい。SAPの会社ではウェブベースのソーシャルゲームのフロントエンドエンジニアとして、クライアントサイドの開発をやらせてもらっていたんですけれども、ソーシャルゲームの世界ではウェブのフロントエンドエンジニアは仕事自体なくなっていくと言われて。とは言え、何かしらウェブのエンジニアとして組織に貢献することはできないかと相談したものの厳しい反応でした。また、当時は有期雇用だったこともあって先が見通せない状況に留まるよりも外に目を向けました。

加藤 朝彦

それでサイカに入ったと。サイカのミッションの才能開花という言葉に共感したと聞いたんですが、エンジニアの人に多い、技術や環境ではなく、ビジョンやミッションに共感したっていうのは、なにか理由があるんですか?


福田 守

自分自身が特定の技術において、何かを成し遂げたいという明確なビジョンがないからでしょうか。興味を惹かれる明確なビジョンがあって、それに対して自分が何か役立てるものがあるのであれば、そちらの方向で組織に貢献していくっていう考え方やマインドが強いですね。

自分の才能開花を波及させたい-01

自分の才能開花を波及させたい

加藤 朝彦

そういうふうにいろいろキャリアを積まれてきて経験をされていく中で、大切にしてる思いはなんですか?


福田 守

自分の才能開花、成長を周囲に波及させることですね。

加藤 朝彦

自分の才能開花をしたいっていう思いと、それを波及させたいっていう思いは、ちょっと違う思いだと思うのですが。


福田 守

自分の才能開花に関しては実体験に基づいていて。20代の後半で福岡に戻って自分自身と向き合うっていう決断をした事が、それまでドン底だった様々なものが好転していく成功体験のキッカケになったんです。それ以来、自分が思い描く理想の生活をしていくためには自分が才能開花、成長していく必要があるっていう考えを持つようになりました。もう一つの周囲に波及させるというほうは、自分が幼少の頃、実家のお店を手伝わせてもらっていたときの経験からきているものだと思います。

加藤 朝彦

そこはぜひもう少し詳しく聞かせてください。


福田 守

お店に立ってお客さんからありがとうって言われること、自分の行動が周囲に感謝されることが嬉しい、と思ったことが原体験としてあります。自分の持っているものを周囲に波及させることによって感謝されると自分も嬉しい。そういったことを大切にしたい、ってところから、自分の才能開花、成長を周囲に波及させることになっていきましたね。

加藤 朝彦

これからありたい自分って想像されてますか?


福田 守

ぼんやりしているんですが、自分が誇れる自分でありたいとは思っています。それと、子どもの頃の原体験もあって、どちらかというとBtoCのサービス作りに興味があります。顔の見える人に対して、何かその人が喜んでもらえるサービス作りというか、自分の技術を使ってそういう人たちに喜んでもらいたいという思いが強くあります。それが、より良い自分であるための一つの指針、目安になっていますね。

加藤 朝彦

なるほど。最後に、福田さんの才能開花自体のイメージを聞きたいなと思うんですが。


福田 守

難しいですね。恐らく、眠っている才能が花開いて、それが続いていくイメージ。僕の中での才能開花のイメージは、自分の人生を自信を持って歩んでいるかどうか。

加藤 朝彦

それは、未来に対しても過去に対しても?


福田 守

どちらかと言うと、過去の経験を糧として、未来に対して力強く自信を持って歩んでいっている人って言うほうがいいですかね。経験を自分事として認めた上で、それを糧にして、自信を持って未来をより良く歩いて行こうぜ、と。そういう人は才能開花してるなっていうふうに思いますね。人生花開いてるなと。

加藤 朝彦

とてもいいお話が聞けました。ありがとうございました。

インタビューを受けてみて

福田 守

インタビューを文字で読み返しているとスラスラ話せている印象ですが、今している事と過去の出来事の一貫性に気づいて整理・理解して話せるようになったのは、わりと最近の事になります。エンジニアリングをライフワークにするキッカケは母が与えてくれたものですが、原点となるイラストやウェブサイトを作る土壌は父がパソコンを与えてくれたからで、どちらかが欠けていれば今の自分は無かったと思います。インタビューを通して、自分の仕事で誰かに喜んで貰えることを誇れる自分であるために、支えてくれる全ての人に感謝しつつ前向きに頑張ってゆく想いを新たにできました。

インタビューされた人


インタビューした人

マゼランが目指すのは、”マーケッター=イノベーター”の世界

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9月20日にリリースしたプロモーションに特化した分析アプリケーション XICA magellan(以下、マゼラン)。CEOの平尾と、XICA magellanチームの岩澤・衣川の3人が、サイカが目指す世界観について議論しました。

対談風景(写真左より、CEO 平尾、マネージャー 衣川、プロダクトオーナー 岩澤)
対談風景(写真左より、CEO 平尾、マネージャー 衣川、プロダクトオーナー 岩澤)

マゼランのはじまりはヒトとの出会い

───マゼランの開発に至った経緯を教えて下さい

平尾:

背景は二つあります。ひとつは、「すべてのデータに示唆を届ける」というサイカのビジョンに立ち返ったことです。誰でも簡単にデータ分析ができる「XICA adelie(アデリー)」というサービスを提供してた過程で見えてきたのが、「このサービスは、自分なりに仮説がある人にしか使えない」ということでした。これだと、一部のハイエンドの人にしか示唆を届けられない企業になってしまい、それだとビジョンに沿わないなと。そこで、個別のニーズに特化した分析アプリを作っていくことで、より多くの人に示唆が届けられる道を選びました。

二つ目の背景でいうと、なぜマーケティングプロモーションという分野を選んだのか?というと、アデリーのユーザーの9割以上がマーケッターだったからです。マーケティングプロモーションにかかわっている人たちは同じようなことに悩んでいて、統計分析に価値を感じているのであれば、この人たちのニーズを深堀して生み出したらハッピーなんじゃないか?という仮説がありました。

それが確信に変わっていたのは「ヒト」ですね。採用面接で、岩澤と出会ったことでした。岩澤がSSPを作っていて、かつ自分でtoCのマーケティングの経験もあって、そのうえで作りたいと思っていたプロダクトが、マゼランの思想と一致していた。

Web広告の出稿では、媒体が複雑に組み合わさってひとつの成果を生み出しています。しかし。それぞれのデータを一括で見ることができていません。つまり、結果として部分最適に陥っている。この問題意識を含めて、岩澤が実現したいプロダクトが酷似していて、運命めいたものを感じたことから、マゼランの開発が始まりました。

平尾喜昭:代表取締役CEO
平尾喜昭:代表取締役CEO

電通との資本業務提携

───電通との資本業務提携をリリースされていますが、これは最初から見込んでいたんですか?

平尾:

プロダクトを構想している段階から、テレビも含めて、オンラインだけでなくオフラインも含めて全体最適を目指さなくければならないという問題意識は持っていました。特にテレビをつなぐというのは最初からトライしていきたいところでしたが、「そんなことができるのか?」と不安はありました。

結果的に、ありがたい御縁をいただけたこともあり、電通さまと提携し、オフラインのデータをつなぐこともできました。

───電通との提携がうまくいった要因は何だと思いますか?

平尾:

いろいろと要因はあると思いますが、大きな流れとして、オンラインの出稿が増えてくなかで、全体最適がどんどん見えにくくなってきている、という問題意識が共有できたことは大きかったのだと思います。

マゼランは全体最適をリアルタイムで行い続けることができて、大きな予算策定や戦略策定を戦術に落ちすことができることが特徴です。デジタルシフトが起きて、全体最適を日々の運用に落とさなくてはいけなくなり、また現場の人たちからも、そのようなニーズが顕在的にも潜在的にも出てきていました。

マゼランは答えではなくヒントを届ける

───マゼランの魅力とは?

衣川:

サービスの魅力はいっぱいありますよ(爆笑)僕らとしては、「広告に関する分析の時間をほぼなくしたい」「未来に向かった時間を増やす」ということは意識しています。

僕自身、広告代理店にいたときは、先月先週の振り返りに結構な時間を取られ、そこから未来を考える時間はかなり少ないのが実情でした。クライアントも同様だったと思います。サイカはそこを極力シンプルにして、「今後どうしていくのか?」を考えるアシストを意図的に作っています。

岩澤:

私自身がマゼランに込める想いをお話すると、過去、マーケティング業務に携わったり、アクセス解析、SSPを作ってきたりした中で、いろんな数字を見せるのは簡単だけど、「ユーザーが本当にその数字を求めるか?」というと、それは違う。その数字の「奥」を求めている。つまり、その数字をもとにどうアクションするかを求めているんです。

マーケティング業務をやっていると、どうしても数字におぼれがちになります。「どのKPIを本当に追ったらいいのか?」「この数値は上がってるけどたまたまじゃないのか?」などと考えだすと、きりがなくなって、何をすればいいのか分からなくなるんです。その中で、自分の感覚としてこの数字を追えばそれなりの確度はある、と絞り込めることもあります。それでも、「それが本当に最適解なんだろうか?」という不安はずっとつきまとっていました。マゼランは、そこをクリアしたい。

再現性や確からしさを出すのが統計の強いところです。統計をもとにした予測の再現性が高いというのが言えたり、どうアクションしていくかが見えると魅力的だし、そういうことをマゼランで実現できていると思っています。

衣川:

数字は重要だけど、数字の根本はもっと国語みたいなものだと思っています。文脈やストーリーがある中で、それが活きているかの判断基準が数字なだけです。こういうユーザーのストーリーがあるからこそ、「これがKGIだよね、これがKPIだよね」と設定していかないと、判断基準がぶれてしまうんですよね。

岩澤:

仮説がないとダメなんですよね。アクセス解析もそうなんですが、数字だけを見ていて答えが出るかというと、そうではなくて、仮説があってその検証をするために数字がある。その検証から見えてきた事実にまた仮説をつくって、ということを回さないと意味がないんです。数字だけを見て何かを解決しようというのはできない。

衣川:

妄想大事ですよね。サイカは、妄想力が高い人を求めています。(爆笑)

平尾:

サイカの提供しているサービスでは、「答えを届ける」というスタンスではなく、「人が考えるヒントを届ける」というのを重要視しています。意思決定をするのは人間なので、そのために考えやすくすることを数字の面からサポートしていくのがサイカなんです。マゼラン自体も、出稿データからKPI、KGIまでのストーリーを数字の力を使って可視化しようとしているサービスで、つまり議題をミニマイズして、使うべき脳みそを特定していくのが目的です。答えではなくて、徹底して考えるためのものなんですよね。それが最大の魅力だと思います。

数字が増えすぎている中で、人が考えるよりも、機械に考えてもらう、という解決策もあります。サイカはそうではなく、数字が多いからこそ、そのデータがどんなことを語っているかを教えてくれて、それをもとにどのように改善していかを考えやすくすることが魅力だし、それが求められる時代になってくると思っています。

時代がどんなに変わっても意思決定するのは人だというのは変わらないし、人が深く考えやすくすることをテクノロジーで実行していくのがマゼランであり、サイカのスタンスです。

岩澤利貢:XICA magellan プロダクトオーナー
岩澤利貢:XICA magellan プロダクトオーナー

マゼランでイノベーターが生まれる世界に

───改めて、マゼランはどういう世界を目指しているのでしょうか?

平尾:

時代と逆行しているのかなと思うことはあります。多くの会社は答えを届けようとしてると思うんです。テクノロジーを使うと楽にはなりますが、考えることを奪っていく思想が多いんじゃないかなと。僕らは少なくとも、テクノロジーを使って、人が考えることを深く早くすることを実現したいと考えています。

この思想が確信に変わったのは、田中洋先生にお話を伺ったときです。「マーケティングとはなにか?」と先生に伺ったときに、「マーケットの構造を理解して、それを意思を持って動かしていくことだ」とおっしゃっていたんですね。多くのマーケッターが、自分のサービスが属しているマーケットの構造を理解していないし、それでマーケティングできるか?と思うんですよね。

もっと進んだ話をすると、マーケットの構造を理解して意思を持ってマーケットを変えていくことは、つまり習慣が変わることだし、それって結局イノベーションを起こしていることなんだと。それでいうと、マーケッターは、本来はイノベーターであるべきなんですよね。

現時点でのマゼランの魅力でいうと、データにおぼれている中で、見やすくなる、意思決定しやすくなる、考える時間が増えるということですが、究極の魅力はマーケット構造を理解して変えられるようになる、イノベーターになる、ということだと思います。結局、マーケットの構造を理解するというのは機械でできるが、意思を持って変えに行くのは人がやるべきことなんですよね。それが、目指している世界であり、ユーザーに提供していきたい世界です。

衣川:

僕らのツール自体が課題に寄り添っているものなので、課題がそもそもないと使えないですね。ユーザーの仮説があって、こういうふうに動いてもらいたいというシナリオもあり、そのストーリーをもっとよくしていきたい、可視化していきたいと思う人にはハマると思います。

これからのマーケティングの文化や習慣を変えていけることをやっているんだと思っています。

衣川高史:XICA magellan マネージャー
衣川高史:XICA magellan マネージャー

マゼランのこれからとそのために必要なモノ

───今後、どのような展開を考えているのですか?

衣川:

まずはオフラインを加味したデジタルの運用における成果を出したいと思っています。デジタルの世界でいうと、デジタルアトリビューションのような評価の仕方は数年前からありますが、今の課題はその評価の運用です。分析と運用を統合していきたいと思っています。そこチームで力を出し合って取り組んでいる最中です。

岩澤:

プロダクトとしては、実績をだしていくにあたってどういう機能が必要かというのを考えながら日々進化していくことだと思っています。自論として、プロダクトにはゴールがないく、「いつまでにどういうものを作る」というのは意味がないと思っています。

いかにその場のニーズにキャッチアップし、いかに早くプロダクトに反映し、早くPDCAを回すか。そのための体制やコミュニケーションを大事にしたいと考えています。

───体制の話にもつながりますが、サイカとしてはどういうチームを作りたいと思っているのでしょうか?

岩澤:

これだけは外してはダメなのは、営業側とプロダクト側の目線がずれていること。お互いがお互いをののしりあっていくのがのびると言っている人もいますが、ののしりあわずにプロダクトを作っていくとものすごい力が出るという経験があって、そういうチームを作りたいと考えています。

ここを強化していくにあたって、現場のエンジニアもクライアント先に行って生の声を聴くという取り組みも始めています。生の声を聴いて、その声をどう解決していくのかというのを一緒に考えるのがなんだかんだ一番早い。営業側はユーザーの声を拾って開発側に伝えながら一緒にプロダクトを作り上げていく、プロダクト側は営業が拾ってきたクライアント側の声を聴いてプロダクトに反映していくのか、そういうチームを作っていきたいですね。

衣川:

チームとしては、この業界について経験者もいれば未経験者もいます。前職が革職人だったメンバーもいるので。(笑)

それぞれで得意分野もあるので、いまはそれぞれが輝ける組織をつくる、好きなところをのばすということが大事だなと思っています。適性や意向に合わせて、組織に貢献できるミッションを持ってもらっています。自分としては、最終的にケツをふけばいいかなと思っています。(笑)

平尾:

意識をしているのは、各人がリーダーシップとフォロワーシップとオーナーシップを持ってほしいと思っています。チームのPDCAを深く大きく早くまわすことに個々が貢献するとすごいと思うんですよね。自分の成果を追うのはチームのためであり、チームがDoをCheckするときの学びをチームに徹底的にフィードバックしていく。イメージでいえば、壮大な実験をする感じです。

PDCAをまわすためのスタンスとして持ってほしいのは、「そもそもこのやり方が良かったのか、これが必要のなのか」という本質を問えることですね。振り返り前提で常に動けることをサイカとして求めたいですね。

やって終わりではなく、振り返ることが、超良質なPDCAにつながります。才能開花できるのは、良質なPDCAがまわっているからです。

“しがらみ”があることで、大切なものに出会えた。

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今回のインタビューは、ビジネスディビジョンの国松。創業メンバーとしてサイカの立ち上げから幅広く業務をこなし、いまは営業行動分析ツールXICA rockhopperのプロダクトオーナーとしてチームを引っ張っている。
父を亡くした経験から生まれた価値観。そして、いま想うことを聞いた。

しがらみがあることで大切なものに出会えた-01

父の死がいまの価値観を築いた。

加藤 朝彦

国松さんの人生に影響を与えたできごとをお聞きしたいと思います。


国松 祥治

私が中学2年生の時に父が亡くなったのですが、それに大きく影響を受けて自分の人間性や価値観が形成されたので、そういう意味で人生に影響を与えた出来事と言えると思います。

加藤 朝彦

どういう影響を受けたんですか?


国松 祥治

父の死に影響を受けたことはいくつかあるんですけど、そのなかでも特に大きかったのは、「人間いつ死ぬかわからない」という実感を持って生きるようになったことです。
「人はいつか死ぬ」なんて当たり前のことですし、小さな子供だって知っていますよね。
ただ、それを知識として持っていても、実感を伴って理解している人は少数だと思うんです。
とくに若い人は。
父はとても厳格な人で、国松家においては絶対的な存在でした。逆らったら拳が飛んでくる昭和の親父みたいな感じで。
なので、僕にとっては“強い大人の象徴”だったんですよね。
そんな父が突然死んだとき、初めて知識としてあった死を実感したんです。
言葉にすると間抜けな感じがしますけど、「あ、父さんって死ぬんだ」って。悲しみというよりは驚きでした。
絶対的な存在で、強い大人の象徴であった父親がアッサリと死ぬなんて、当時の自分にとっては有り得ないことでした。
ただそのときはまだ13歳だったので、それによって自分の死を意識することはありませんでした。

加藤 朝彦

その他のきっかけもあったんですか?


国松 祥治

「人間いつ死ぬかわからない」という実感に至るまでには、もうひとり、自分が大学生の頃に亡くなった方の影響がありました。その方はとても若くして亡くなられたんですけど、葬儀でその方の遺体と対面した時に、「悲しい」よりも先に「怖い」と思いました。
その方が怖かったということではなく、若くして命を失う可能性に直面した気がして怖かった。
その時に「自分だっていつ死んでもおかしくないんだ」って強烈に思ったんです。

加藤 朝彦

そういった考え方は、サイカを創業したことに関係していますか?


国松 祥治

強く関係してます。大学卒業が迫ってきて進路をどうするか考え始めた頃、僕には3つの選択肢がありました。
(1)就職活動をして就職する。
(2)平尾と一緒に起業する。
(3)フリーターになる。(当時、時給のいいアルバイトをしていたので)
正直なところ、どれが正しいか分からなかったんです。
ただ、就活でいろいろな方の話を聞くなかで「入社後○○年は下積み」と言う方が多かったんです。もちろん凄く魅力的な方もいたんですけど、当時の自分には「数年頑張ったら好きなことができる」という人生プランを選ぶのが難しかったんですよね。

加藤 朝彦

修行の時間がもったいない?


国松 祥治

もったいないとは思わないんですけど、単純に「2年後に生きてるか分からないよね」っていう(笑)
それで「いまこの瞬間に一番楽しいことを選ぼう。それはなんだろう?」と考えた結果、サイカにジョインすることにしたんです。
平尾とは学生の頃から学生団体をやったりイベントを主催したり、色々と一緒に活動してきたのですが、それがずっと楽しかったので。
まぁ3つあった選択肢の中で、ダントツで一番収入的に危うかったですけどね(笑)
当然ながら創業期は給料ゼロだったので、日中はサイカ、夜から朝まではバイト、睡眠時間はバイトの仮眠休憩のみ、という生活をしばらく続けていました。

加藤 朝彦

そんな経緯で平尾さんと創業したんですね。


国松 祥治

ですです。
あ、ちなみに後日談として話しておくと、「企業に勤めたらすぐに好きなことはできない」「起業の道を選んだらすぐに好きなことができる」という当時の発想は完全に間違いでしたね。(笑)
浅はかです。本当に浅はか。(笑)
企業に勤めて1年目からやりたいことをガシガシやってらっしゃる方はたくさんいますし、起業したからといって四六時中好きなことだけをできるわけではありません。特に創業期は。

加藤 朝彦

仕事の選択以外で変わった価値観は?


国松 祥治

結婚に対する…恐怖…とか(笑)

加藤 朝彦

え?


国松 祥治

父の死をきっかけに、その後数年間に渡って家族が大変なことになっちゃいまして。
よく父親のことを「一家の大黒柱」と言いますけど、まさに大黒柱を失った家の如く崩壊しました(笑)
その時に「父親が家族に対して負う責任ってめちゃめちゃ重いんだな」って思ったんです。
自分が家庭を持って子供ができた時に、もしかしたら自分はすぐに死ぬかもしれない。
そうしたら僕は自分の子供に同じ苦しみを味わわせるのではないかって思って、すごく怖いですね。

加藤 朝彦

それは根深いですね。


国松 祥治

あと、周りの人達と距離の取り方も変わりました。
当時、早稲田大学の付属中学校に通っていたんですけど、父親が亡くなって家庭の収入も無くなったので、もう私立の学校には通えないなって思ったんです。学校を辞めることを覚悟してました。
そんな状況だったんで、そのまま高校卒業まで同じ学校に通い続けるであろう同級生たちと距離を取るようになって、そうしているうちに、いつの間にか人と距離を取ってコミュニケーションを取るのが染みついちゃってました。
結果的には中学を辞めずに大学卒業まで早稲田に通い続けることができたんですけどね。
人と距離を取る癖はずっと残りました。今はもうそんなことないですけど。

加藤 朝彦

平尾さんとの出会いは?


国松 祥治

出会ったのは中学1年生の時ですけど、ちゃんと話すようになったのは高校3年生の冬からです。もう卒業直前のタイミングでしたね。笑

加藤 朝彦

そこから平尾さんとは仲が続いたのは何か理由はあったんでしょうか?


国松 祥治

彼は人に“話させる力”みたいのを持ってるんですよね。あるとき、平尾から「国松は冷静で優秀だよね」と言われたんです。そのときにどうしてか分からないですけど、「いや、そういうキャラを演じてるんだよ。もし平尾がおれのことを冷静で優秀なやつだって思うなら、それはおれじゃないからね」って言えたんですよ。不思議なことに。

しがらみがあることで大切なものに出会えた-03

“演じる”ことで周囲との距離を測った学生時代。

加藤 朝彦

そんな大きな経験を、そこまで冷静に自己分析ってできないと思うんですよね。


国松 祥治

もちろん最初の数年間くらいは客観的に見れていなかったです。でも大学生くらいから少しずつ冷静に振り返れるようにはなってきました。年に一回命日は必ず来るので、そういうタイミングで思い返してみて少しずつ整理した感じですね。

加藤 朝彦

お父さんの死より前から自分のなかにあった価値観はあります?


国松 祥治

うーん。まわりの期待に応えるというのはありました。

加藤 朝彦

きっかけは?


国松 祥治

小さい頃から身体が大きかったんです。小学校6年生の時には身長が170センチ超えてたので。

加藤 朝彦

うらやましい(笑)


国松 祥治

しかも中学受験のために塾に通っていたので、小学校のテストはだいたい100点を取っちゃう。身体もでかいし、勉強もできる。そういうキャラ。

加藤 朝彦

そうなるとリーダー的な存在になるじゃないですか。


国松 祥治

特にそれを望んだわけではなかったのですが、なんとなくクラスのまとめ役になっていました。なので、周りの友だちが思い描く、まとめ役に相応しい人間になろうとしていました。

加藤 朝彦

周りの期待を裏切ったらダメみたいな?


国松 祥治

そんな感じです。小学生の頃に形成されたそんな気質も相まって、中学高校でも周囲に対するイメージ作りを自然とやってました。

加藤 朝彦

まわりが何を望んでいるのか考えながら行動してた?


国松 祥治

そうですね。同級生に対しても、教師に対しても。

加藤 朝彦

そんななか、平尾さんがきっかけて「演じなきゃいけない」という気持ちは薄れたんですか?


国松 祥治

それが最初のきっかけだったと思います。素の自分を出したら周囲との関係が壊れると思ってたんですけど、平尾はそのあとも定期的に飯に誘ってくれて。
そのときに「素の自分を出しても良いのかも」って思ったんです。むしろ、素の自分を出したことで彼からの信頼感が増した感覚があったんです。いま考えると当たり前なんですけど、自分からさらけ出さないと相手も近づいてこない。人生で一度もそれをしてこなかったので、新鮮な発見だったんです。

加藤 朝彦

そこから少しずつ変わっていたんですね。


国松 祥治

それから少しずつ自分の内面を伝えるようになっていきました。「実は僕こんな感じっす」とか「みんなにはどう見えるか分かんないけど、実はこんなこと思ってます」みたいに。

加藤 朝彦

周囲の反応はどうでした?


国松 祥治

思いのほか良い関係性が築けるようになったんですよね。本音を出してもまわりは僕のことを嫌いにならないんだって気づいた。一番大きかったのはサークルの先輩との出会いですね。

加藤 朝彦

先輩?


国松 祥治

その人は、演じてた僕に踏み込んできてくれたんですよね。僕の化けの皮を全部剥いでくれた。

加藤 朝彦

いい出会いですね。


国松 祥治

そうですね。いまでも覚えていることがあって。父の死に関することってあんまり話したくなかったんですよ。話すとだいたい相手が「聞いてごめん」って雰囲気になって気まずくなるから。でも、たまたまその先輩に話したら、笑い出したんですよね。

加藤 朝彦

それはどういう笑い?


国松 祥治

詳しく理由は覚えてないんですけど、とにかく笑われたんですよ。なんかそれですごく気が楽になって。

加藤 朝彦

それ先輩の計算だったら、すごいですよね。


国松 祥治

ほんとすごいと思います。

しがらみがあることで大切なものに出会えた-02

とにかく手探りだったサイカ創業

加藤 朝彦

社会に出てからの話を聞きたいと思います。国松さんの場合、社会人スタートがサイカじゃないですか。しかも創業。そこでの苦労ってありましたか?


国松 祥治

創業期の珍事は色々ありますけど、学生からそのまま起業したために社会人の基本的な作法が分からずに苦労した場面は多々ありましたね。
ビジネスメールの書き方すら知らなかったので、平尾と
「知ってる?社会人のメールって最初に『お世話になっております』から始まるんだぞ」
「え、マジで!?『こんにちは』って書いてたわ!」
みたいなことを本当にやってました(笑)

加藤 朝彦

笑。たしかにそういうお作法は分からないかも。


国松 祥治

Google先生には大分お世話になりました(笑)
ただ、ビジネスマナーはググれば分かりますけど、実際の仕事ではググっても答えが得られないことだらけですよね。
そういう時に「どうすれば良いでしょう?」と聞ける先輩や上司はいないので、本当にあらゆることを手探りでやっていて、終わってから「もっとこうすれば良かったのに」と悔やむことばかりでした。
そんな中で、CTOの発案で創業期には「KPT」という手法を使って週に1回社内で振り返りを実施していたのですが、今考えるとこれは良い取り組みだったと思います。
忙しい中でも強制的に課題を振り返って学びに変換する場を日々持てた、というのもありますが、課題に対する答えを知っている先輩や上司がいない代わりに、個人の課題に対して社内メンバーの複数の脳みそでもって知恵を出すことで補完できていたかなぁと。
サイカでは開発手法としてスクラムを採用していますが、この「KPT」は今でも振り返りの手法として2週に1回開発チームで実施しています。

加藤 朝彦

サイカが学生団体から始まって以来、ずっと続けられたのはどうしてですか?


国松 祥治

そういえば学生団体のときは8人いましたけど、結局残ったのは僕と平尾だけでしたね。。。
なんででしょうね。おそらく、それも「いつ死ぬか分からない」という考え方に行き着くように思います。
あと、平尾との関係性っていうのはあると思います。“彼と共に戦う覚悟”みたいのは学生団体のときの他のメンバーとはちょっと違ったと思います。

加藤 朝彦

それは付き合いの長さ?


国松 祥治

長い付き合いによって醸成された愛ですかね(笑)

日本中、世界中に“仲間”を増やしたい

加藤 朝彦

いまでも価値基準として「明日なにあるか分からない」というのはありますか?


国松 祥治

ありますが、以前ほどでは強くはありません。
昨年末に一年間を振り返るワークショップに参加したんですけど、そこで大きな気づきがあったんです。

加藤 朝彦

どんな気づきですか?


国松 祥治

「明日死ぬかもしれない」という実感は、以前の自分にとってはプラスだったと思っています。
それって強迫観念とか焦燥感みたいなものなんですけど、言い換えるとハングリー精神であり、生きる原動力なんですよね。
ただ、いまも4年前と同じだけの熱量で同じ感覚を持っているかというと、そうではないなと気付きました。

加藤 朝彦

徐々に薄まっている?


国松 祥治

そうですね。

加藤 朝彦

それはなぜ?


国松 祥治

端的に言うと、愛するものが増えてしまったんです(笑)
中高生時代の人間不信が原因で、僕は意識的に人との深い繋がりをもたないようにしていました。友情とか愛情みたいな。
人との深い繋がりは一般的に良いものと捉えられますが、僕にとっては“しがらみ”のようなもので、必ずしも良いものとは捉えていませんでした。
そういう意味で、僕は世の中に対するしがらみを持っていなかったんです。だから明日死んでも問題無かった。
でも、サイカで4年も頑張ってると、いろんな繋がりができて世の中に対する“しがらみ”がもうあるんですよね。なので、明日死んでも良くなくなってきたんですよ。

加藤 朝彦

それは仲間が増えたから?


国松 祥治

そうですね。仕事でもプライベートでも。
そういう人達との繋がりが増えてきたら、明日死んだらダメになったんです。そうすると“明日死ぬかもしれない感”を以前ほど持てなくなってきました。

加藤 朝彦

それが薄まることで増える感情ってありますか?


国松 祥治

それは、もう…愛です(笑)

加藤 朝彦

愛をもう少し具体的に言うと、どこに向いてる愛ですか?


国松 祥治

人とか、人が集まるコミュニティとか。

加藤 朝彦

コミュニティも人の集まりですもんね。


国松 祥治

そうですね。たとえばサイカに関して言うと、サイカのメンバーやパートナー、サイカのツールのユーザーの皆さんなどなど、個々人に対する愛もありますけど、そういった人達の集合体であるコミュニティが持つ空気感みたいなものに対する愛もありますね。

加藤 朝彦

人に気持ちが向いているのは、昔の反動?


国松 祥治

それもあるかなと思います。結局、当時の人間不信も中二病みたいなもんだったなと思うんです(笑)
実は人に愛されたい欲求をすごく強く持っていたと思うんです。でもそれを状況が許してくれなかったのかなと。
「愛されないんだったら、自分が全員きらいになってやる」っていう屈折した感情。

加藤 朝彦

なるほど。


国松 祥治

でも幸いにして僕のことを愛してくれる人がいて、当時は願っても手に入らなかったものが、いまはある。

加藤 朝彦

その感覚はビジネスをする上でも大切にしていますか?


国松 祥治

大切にしたいと思っています。そういう関係性を築くのは難しいですけど、築けると嬉しいです。

加藤 朝彦

それはクライアントに対して。


国松 祥治

クライアントもそうですね。

加藤 朝彦

そういう関係を築くのに気をつけていることはありますか?


国松 祥治

ロールモデルは「ドラえもん」のジャイアンとのび太の関係性ですね。(笑)
ドラえもんって、日常的には「のび太 VS ジャイアン(&スネ夫)」の構図を基礎としてストーリーが展開していくじゃないですか。
でも、映画版とかで日常の枠組みを超えた強大な敵が現れると、普段は敵対関係にあるジャイアンがのび太の側について、「のび太&ジャイアン VS 強大な敵」という構図になりますよね。
ここから得られる示唆は、同じ敵や困難を共有すると人の関係性は深まりやすい、ということです。
これはプライベートでも仕事でも意識していて、たとえば仕事に関していうと、ただのツール提供者としてクライアントに接していると、クライアントとの関係性はなかなか深まっていかない。
でも、ツール導入の目的となっているクライアントの課題にまで踏み込んで伴走するようにすると、ただのツール提供者ではなく、同じ課題に立ち向かう仲間になるので、関係性が深まってゆく。

加藤 朝彦

そういう仲間を増やしてゆきたい?


国松 祥治

そうですね。名古屋のクライアントであれば、名古屋に“仲間”がいる感じですよね。
最近思うのは、それが広がっていって、日本中、世界中に仲間がいるようになったらいいなって思うんです。

加藤 朝彦

それは今後のご自身のビジョンにもつながる?


国松 祥治

そうですね。

加藤 朝彦

今後どうしていきたい? ずっとサイカにいるんですか?


国松 祥治

今のところ、サイカを離れるイメージはあまり無いです。

加藤 朝彦

サイカをこうしていきたい、というのはありますか?


国松 祥治

個人的には最近、組織の内側に目が向いてるんです。サイカのメンバーが増えてきたことで、創業当初からあった“サイカの空気”みたいのが少し変わってきているなと感じています。それは自然な流れですし、悪いことではないと思います。
でも、そういう初期の“サイカの空気”みたいなのもしっかりと残していきたいなという思いもあるんですよ。それを残していけるとしたら、創業からサイカにいる僕の役目なのかなって感じています。“サイカらしさを残す”というのは、僕のテーマのひとつだと思っています。

小さな成功を積み重ねることで生まれる自己肯定感。

加藤 朝彦

国松さんは才能開花をどう捉えていますか?


国松 祥治

うーん。自己肯定感でしょうか。

加藤 朝彦

自己肯定感?


国松 祥治

誰でも落ち込んだりくすぶったりする時ってありますよね。そして、それが悪化すると精神を病んでしまったりする。
自分の過去の体験から、人がそういう状態に陥ってしまった時の対処法は、小さな成功を重ねることだと思っています。
ホントに小さなことでも、何か一つでもやり遂げることができた時に「自分、意外とやれるじゃん」って自分を認めることができて、そしたらまた次のチャレンジに迎える。
まぁ別に病んでるところ起点じゃなくていいんですけど(笑)、そうやって小さな成功を積み重ねることで、大きな成功も狙えるようになって、大きな成長に繋がっていくものかなと思っています。
結局は世界を定義するのは自分の価値観でしかないので、世の中が天国に見えるか地獄に見えるかは自分次第。自分が変われば世界は変わると考えると、才能開花は自己肯定感じゃないかなと思います。

インタビューを受けてみて

国松 祥治

「愛」って11回言ってますね。あと、「平尾」って9回言ってますね。完全にキモい奴ですね。
ちなみに、この長い長いインタビュー記事をここまで読んでくれる人がいるとしたら、その人のことも愛してます。

インタビューされた人


インタビューした人


「役に立ちたい」を軸にした働き方

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今回のインタビューは、フロントエンドエンジニアの乙須。営業分析Webアプリケーション・XICA rockhopper ( XICA rockhopper )のフロント側に携わり、デザインもこなす。
サイカに入ったことが人生の転機となったという彼の求められる人材になりたいという思いの根本を聞いた。

「役に立ちたい」を軸にした働き方

中学時代の人間関係は財産

加藤 朝彦

はじめに人生で転機となった体験を聞かせてください。


乙須信一

中学校の受験をしたことです。そこでできた友人とは今も長いつき合いになっています。ロックホッパーでサーバー側をやっている渡部さんとはそのときからの友人です。

加藤 朝彦

当時はどんな中学生たちだったんですか?


乙須信一

変なやつらばっかりでした。今は占い師をやっている人とかもいます(笑)。
高校から外部の人も入ってくるんですが、中学出身のやつは見ればすぐわかるくらいでした。当時流行っていたTRPGをしたり、教室に遅くまで残っていつも遊んでましたね。

加藤 朝彦

そういう人間関係ができたことが乙須さんの中では一つの転換点というか財産になったんですね。


乙須信一

はい。今でも相談にのってもらったりします。一時期少し体調を崩したときも病院を紹介してもらったりつき添ってくれたり。転職の相談に乗ってもらったこともあります。

仕事への取り組み方が変わった二つ目の転機

加藤 朝彦

大事な転機だったんですね。 二つ目でいうと?


乙須信一

一つ目の会社を辞めることになって二つ目の会社に入ったときですね。
一時期体調を崩してしまいがちだったときもあったのですが、二つ目の会社は社長さんがいい人で、そこで体調も回復していきました。

加藤 朝彦

今から振り返ったときに乙須さんにとってその経験をされたことはどういうふうに捉えていらっしゃるんですか。


乙須信一

あまり気づかないうちに無理をしていたんだな、と。会社で言われたことは絶対にやり遂げなきゃ、みたいな感じがありました。
だから考え方の転換のきっかけになったという感じがします。そんな無理してまで働くものでもないというか。

加藤 朝彦

仕事への取り組み方も結構変わったんですか?


乙須信一

会社の仕事であってもつらかったり理不尽なこと言われたら、無責任でいいということではないですが違うところにいけばいいやともっと気楽に思えるようになりました。
「自分で入社を決めたのだからきちんとやっていかなきゃいけない」「お客さんもやってもらわないと困る」というのがあるから、絶対にやらないといけないと思っていたので。

加藤 朝彦

そもそもどういったきっかけで一社目に入られたんですか?


乙須信一

大学が情報工学部だったですが教授の紹介でデータベースエンジニアとして入社しました。

加藤 朝彦

なるほど。ご紹介だとそれも責任感につながりそうですよね。


乙須信一

わざわざ紹介してもらった会社を辞めてしまうのも教授に悪いのかなと思っていたこともあって十年ほどいました。

加藤 朝彦

転職された二社目の会社の社長さんはどんな方だったんですか?


乙須信一

すごく優しい方で「つらいんだったら無理しなくていいですよ」と言っていただいたり、相談にものってくれたり、「一緒にご飯食べに行きましょう」とか声をかけてもらったり。

「役に立ちたい」を軸にした働き方

そこに仕事があってやるべきことを探せる

加藤 朝彦

三つ目のきっかけはなんでしょうか?


乙須信一

それはやっぱりサイカに入ったことです。
二社目はいい会社だったんですが、働き方として受注がぽつぽつ来るという感じで売上が上がったら給料に反映される、という働き方だったんです。精神的にきつかったときはそんなに働けていたわけではないので、懐の事情的につらくなったところで今一緒に仕事をしている嘉悦さんが相談に乗ってくれて。「今働いているところに来ないか?」ということでサイカの面接を受けました。

加藤 朝彦

入社されてからはどうですか?


乙須信一

一番思ったのはみんな熱意があるなということですね。才能開花ということを大事にしていて、その熱意に当てられて自分も何かやっていけるかなという思いが芽生えたというか。

加藤 朝彦

確かに熱い人が多いですよね(笑)。
自社のサービスを作る側に回るのは一社目・二社目と少し違うかなと思うんですが、働き方や仕事の仕方で変わったところはありますか?


乙須信一

そうですね。今は「そこに仕事がある」という感じです(笑)。受託だと仕事が定常的にあるわけではないし、自分のスキルがないと取ってこられた仕事も「自分がやります」と言えないところがあって。その点今はやるべきことが明確になりました。
やることを見つけてやっていける働き方の方が性に合っているみたいです。

加藤 朝彦

今の乙須さんの仕事の幅はすごく広いと思うのですが、全然やってきていなかったことでもあえてチャレンジすることってどんな感じなんですか?


乙須信一

どちらかというと自分は受け身な方なので、覚えなきゃいけないことが出てきたらそれを覚えてやるというのは性に合っているんだと思います。やったことがないことでもやればできないわけじゃないので。

「役に立ちたい」を軸にした働き方

プログラミングは物を作るモチベーションを満たすツール

加藤 朝彦

乙須さんはプログラミングとかコードを書くことがとにかく好きなのかなとお話を伺いながら思ったんですが、乙須さん自身はエンジニアリングの中でどんなことを楽しいと思うのでしょうか?


乙須信一

「何かを作り上げていく」というのは楽しいです。自分が積み上げていって物ができあがるというのが。

加藤 朝彦

そうやって物を作るのが好きなんですか?


乙須信一

家で趣味で絵を描いたりとか学生のころは弦楽部に入っていました。弦楽なんかは物作りとはまた少し違うと思いますが、みんなで演奏して一つの曲を作っていくだとか表現することが好きです。

加藤 朝彦

そこからエンジニアリングに興味を持って仕事にしていこうと思ったのはどうしてだったんですか?


乙須信一

高校のときの友だちでプログラミング方面に進む人が多かったので、自分もそっちに行ってみようかなというのがきっかけです。

加藤 朝彦

それから職業人としてエンジニアをずっとやってきて、いろいろな選択肢があった中でサイカに決めたのはどこに思いを持って入っていただけたのでしょうか?


乙須信一

友人に言われた話なんですけど「君は自分で流れを作るよりも流れのあるところに行ってうまく泳いでいるほうが多分合っている」って言われたんです。

加藤 朝彦

面白い表現ですね(笑)。そう言われて率直にどう思われましたか?


乙須信一

「確かにな」と思いました。サイカってみんな熱意があってすごく流れがあって、こういうところにいた方が自分はうまくいくんだろうなと納得したところがあります。

加藤 朝彦

今のサイカのフェーズだと個人の役割が増えたり変わったり自分が当初想定していなかった仕事をやることも多いと思いますが、乙須さんは嫌だったりしないですか?


乙須信一

じゃあやってみるかという感じなので嫌だなってことはないです。なんでもかんでもって訳ではないので、さすがに営業やれって言われたら「ちょっと・・・」と思いますが(笑)。やれることならやってみようかな、それでやってみて無理だったらその時はその時周りに相談していけばいいかなと思ってます。

加藤 朝彦

そこで「やろうかな」と思えるのって乙須さんらしいなと思いますがどうしてなんですかね?


乙須信一

深く考えたことはないですが「求められる人材になりたい」とは思っています。親があまり褒めてくれない人だったということもあって、自分が必要としてもらえる状態にいられるとすごく心地がいいと感じます。

加藤 朝彦

今後サイカで期待される仕事がたくさんある中で、乙須さん自身がその先でどんな状態になっていたら自分の人生としていい状態だと思いますか?


乙須信一

今のところは外から言われてやっていることが多いので、自分の中からこういうことをやっていきたいというのが出せればと。期待に応えたいというのも自分の中から出ているものではありますが、それでもやっぱり外から何かがないと返せない状態なので。

加藤 朝彦

直感的にこの辺のことやってみたいなとかありますか?


乙須信一

これというのはないです。なので突然エンジニアと全然関係のないことに生きがいを感じたりするかもしれないです。

加藤 朝彦

いい意味で、プログラミングにこだわりがあるというわけではなくフラットに見ていらっしゃる感じなんですか?


乙須信一

そうですね。プログラミングは物を作りたいというモチベーションを満たしてくれる一つのツールで、絵を描くこととかとあまり変わらないですね。

加藤 朝彦

そうすると全然違うことをしていてもおかしくないですね(笑)。今見えている時間軸の中で直近のことで言うと実現したいことってどんなことですか?


乙須信一

直近だとやはりプログラミングのことですね。ロックホッパーを今よりもいいものに作り直してたくさん売れれば。そのときに違う欲求が出てくるのか、そのまんま突き進んでいくのかはそのときになってみないと分からないですが。

加藤 朝彦

なるほど。最後の話と近いんですが改めて乙須さんご自身は才能開花という言葉をどのようにとらえていますか?


乙須信一

成長だと思います。どんな方向でもとりあえず何かを得て自分が少し大きくなって、やれることが増えて、という風に捉えています。

加藤 朝彦

そういう言葉の定義をしたときに、乙須さんが大事にしたい自分にとってのよりよくなる方法ってどんなことですか?


乙須信一

今よりも期待に応えられる自分になっていることだと思います。

 

加藤 朝彦

そこが一番大事なところなんですね。期待に応え続けて自分がよくなっていくといういい状態でサイクルが回る感じですね。
あとは無理しすぎないでいただければ(笑)。


乙須信一

今のところ全然無理していないので大丈夫です(笑)。

インタビューを受けてみて

乙須信一

最初、人生の転機と言われてもそんなのあったかな?と考えましたが、そのつもりで振り返ってみれば小さなものから大きなものまで色々なことが自分にとって転機となりえるのだなと気づかされました。外からの刺激を受けてのやってみよう、もそんな転機の一つで、自分も誰かの刺激となり転機となることができればよりよい「求められる自分」になれるのではないかと考える新たな転機になったと思います。

インタビューされた人


インタビューした人

カスタマーサクセスチームがお客様を成功に導くためのキーワードは「橋渡し」と「伴走」

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近年、B2BやSaaS領域においてお客様を成功に導く存在として注目され始めている「カスタマーサクセス」という役割や考え方。サイカでも、カスタマーサクセスディビジョンを新設 ( クライアントサポート体制強化のため、カスタマーサクセスディビジョンを新設。マネージャーとして高橋 歩氏がジョイン )し、クライアントサポート体制強化を図っています。ここでは、CCSO (Chief Customer Success Officer)に就任した高橋 歩が、CEOの平尾、XICA magellanプロダクトオーナーの岩澤とともにサイカが目指すカスタマーサクセスについて語ります。

対談風景(写真左より、CCSO 高橋、プロダクトオーナー 岩澤、CEO 平尾)
対談風景(写真左より、CCSO 高橋、プロダクトオーナー 岩澤、CEO 平尾)

入社後気付いたサイカの強み

平尾:

高橋さんも、入社して1ヶ月ですね。

高橋:

毎日ものすごく濃密な1日を過ごしています(笑)。入社してすぐにスタッツディビジョン(プロダクトのコンセプトモデルを作っている部署)の方と1対1での統計勉強会を開いてもらったのですが、始まる前に「歩さんにとって統計とは何ですか?」「過去どんな課題を統計で解決したことがありますか?」みたいな質問から始まって「うおー今、僕、試されてるぞー」みたいな(笑)。もちろん、分からないところは素直に聞いて全部教えてもらいました。

岩澤:

そしたら、もうXICA magellan(以下:マゼラン)はバッチリですね。

高橋:

いやいや(笑)、だけど、マゼランがマーケターのどんな課題を解決しようとしていて、裏側でどんな統計手法を使っているかはだんだんと分かってきました。サイカがこれまで圧倒的に統計を活用しながらお客様を支援してきた経験とその蓄積は、サイカの強みとして誇るべきだし、もっと広めていきたいなと思いました。正直、入社前には気づけてなかったので。

平尾喜昭:代表取締役CEO
平尾喜昭:代表取締役CEO

サイカが解決したいマーケティングの課題と、その先にある世界観

平尾:

もともと、統計で世の中を良くしたいという思いから、誰でも使える分析ツールを作っていこうとしていました。4年くらい前ですね。その頃、初めて高橋さんともお会いしたんでしたね。

高橋:

はい。僕はその頃事業会社で、アクセス解析データを見ながらサイト改善をする仕事をしていました。リリース前の分析ツールのプロトタイプを拝見して、可能性を感じたのを覚えています。

平尾:

その後、そのツールは多くのマーケターにすごくご理解をいただけてはまっていきました。データを自分で集めてデータを手動で入れて、というのを繰り返すことをやり続けているマーケターを見ながら、こういうニーズだったり共通の問題意識がめちゃくちゃあるんだなと思いました。この確信のもと、テレビCMからオンラインのコンバージョンまでを統合して分析できるマゼランができあがりました。

岩澤:

私は前職でアクセス解析ツールを作っていました。当時のことは以前にも話をさせてもらったけど、ずっと統計を使ってマーケターが求めるプロダクトを作りたかった。マゼランで実現しようと思っているのは、まさにマーケターの現場のデータ分析において「いかに迷わず、かつ時間をかけず、そこで見てきたユーザー像やストーリーを元にどうアクションするか」を手助けできる世界です。


参考記事: マゼランが目指すのは、マーケッター=イノベーターの世界

カスタマーサクセスの役割は「橋渡し」と「伴走」

高橋:

マゼランがマーケターを手助けしている世界に近づいていくためにも、カスタマーサクセスはもっと活躍できると考えていて、それは大きく二つの役割で担いたいと思っています。「橋渡し」と「伴走」です。

1つ目の「橋渡し」は、僕らが描いている世界をどうお客様に繋げていくか。僕らのツールとお客様の業務プロセスの橋渡しだったり、僕らが持っている統計の知見とお客様のマーケティングの知見の橋渡しをしていく必要がある。入社してすぐ、岩澤さんに、マゼランのペルソナに「統計がわからない人」を追加したいというお願いをしました。僕らはずーっと統計のことを考え続けているので、統計を知っていることが当たり前になっています。けれどお客様は統計を深くご存じでないかもしれない。だからツールや資料の中に突然難しい言葉が出てくると、とたんに分からなくなってしまう。これは、僕も入社して経験しています(笑)。例えば、分析精度を高めるための考え方である公差検証とか自由度調整済み決定係数があるけど、これってなんでお客様にそのままの単語で伝えているんだっけとか。精度が高まると未来を予測できる確率が上がるのだから、これは「未来予測スコア」と言い換えてもよくない?とか。

岩澤:

先日もマゼラン関係者みんなで集まって「マゼラン用語一新ミーティング」をやりましたね。

高橋:

お客様が自分で理解できる状態にしていかないと意思決定できないし、活用もしていただけない。そこまで我々のツールやサービスがお客様に近づいていく必要があります。また、お客様からマゼランに近づいてきてもらう必要があることもあります。カスタマーサクセスの橋渡しによって、両者を繋いでいきたいですね。

カスタマーサクセスは、カスタマーと向き合ってはいけない!?

高橋:

2つ目は「伴走」。言葉で言うのは簡単だけど、実現するのはすごく難しいと思っていて。僕は、カスタマーサクセスって、カスタマーと向き合ってはいけないと思っているんです。なぜなら、僕らが向き合うべきなのは目の前にいるカスタマーだけではなく、カスタマーの抱える課題や目指すゴールですよね。例えばお客様から「◯◯機能が上手く使えないんだけど」と聞かれた時に、一生懸命その使い方を教えてあげる。それはカスタマーと向き合っていることにはなるけど、もしかしたらそのお客様はその機能が使いたくて聞いてるんじゃなくて、上司から言われたことについて考えたいのかもしれないし、やりたいことのイメージができないまま聞いているのかもしれない。

だから僕らはその対面しているカスタマーからの質問だけに向き合うのではなく、その裏にある「何でこれを聞いているんだろう?」とか「本当はどんなことをしたいと思っているんだろう?」というところをちゃんと想像して、引っ張っていく必要があるんです。お客様とただ向き合ってしまうと、ときに対立してしまう。そうじゃなくてゴールの方向を一緒に向く。同じ方向を向くことができて、初めてカスタマーのサクセスに向けて伴走できる準備になるんです。

この伴走こそが、結果的にマゼランがある未来にお客様をお連れすることだし、お客様からも学ばせていただきながら、僕らが描く未来をアップデートしていくことにつながる。こういう循環をカスタマーサクセスの手で実現したいし、プロダクトやソリューションにも反映していきたいと思っています。

カスタマーと、プロジェクトのゴールを描く

高橋:

そもそも、マゼランのコンセプトって誰が聞いても総論賛成なんですよね。「全体最適×高速PDCA、その通り!」みたいな。でもそれを現場に落としていくときにはそういう訳にはいかない。今ここで、日々CPAの目標を与えられて戦っている現場の運用担当者にいきなり、隣にもっと高い山があるよと言っても登れないじゃないですか。

平尾:

まずはどんなことから始めていくイメージですか?

高橋:

どのタイミングで、誰に何を伝えるとお客様にとって良いか、というのがまだまだ改善できるのではないかと思っています。今の状態って、ともすると、目の前の課題への対応になってしまうことがある。例えば富士山に登るとしても1合目までの課題だったり、場合によっては次の電信柱まで、とか。

本当は僕らが描く未来はここにあるんだよね、お客様はここに行きたいんだよね、最初の3ヶ月の小さなゴールはここだよね、だからここまで行くんだよということを示した上で歩くほうが歩きやすいはずなんです。どこまで到達するのか、というのが分かっていない状態で歩かされるとものすごく遠く感じますよね。どこまで行くよと言われていれば近く感じるのに。お客様に提出する資料ひとつとっても、なぜこのタイミングで必要なのかとか、これはあとでここで役に立つよというところが整理されるとよりお客様に伝わっていくんじゃないかなと思います。

岩澤:

高橋さんがよく言う「小さな成功体験」も、ここに繋がるんですね。

高橋:

さらに言うと、お客様自身がゴールを描き切れていないこともある。そのときは、僕らが信じているマゼランがあるHappyな未来を提示する必要があるし、そこまで伴走していきたいですね。

岩澤利貢:XICA magellan プロダクトオーナー
岩澤利貢:XICA magellan プロダクトオーナー

マゼランがマーケターをHappyにする未来

岩澤:

だからこそマゼランの目指す世界として、マーケティングや現場がどういう価値観になるのか、どういう世界になっているのか、というもう一個上のワンフレーズが欲しいですよね。マゼランとしての存在価値というか、マゼランが広がっていくことによってこういう世界が待っているんだよ、どういうHappyが待っているのかという。

今は「すべての広告を変える」というフレーズを使っている。けどまだしっくりきてなくて、それを変えることによってどうHappyになれるの?というのが欲しいんですよね。

平尾:

いま提示している「全体最適×高速PDCA」も現場のファクトから出てきた解決コンセプトじゃないですか。それを解決した先に何があるんだっけとか、それによって何が実現するんだっけ、というところは僕らが言葉にしないといけない。

岩澤:

この間高橋さんと食事していた時にそのフレーズがあるだけで色々なものがブレなくなるなって話してたんですよね。こういう世界を目指すにはあえてこの機能はいらないといった見極めができる。
目指す世界のために今カスタマーサクセス・営業・マーケティング・プロダクトが何をすべきかが明確になる。

平尾:

そしてその答えを出すことがイノベーションに繋がっていくと。

高橋:

そうですね。そこまで繋がると良いですね。
カスタマーサクセスとしてお客様に伴走する中で作り上げていきたいと思っています。

カスタマーサクセスとして、サイカとしての才能開花

高橋:

入社する前に平尾さんと飲みながら才能開花の話もたくさんしました。僕は音楽をやらないから平尾さんのバンドの例え話はあまりピンとこないんだけど(笑)こういうことだなというものを、2つ受け取りました。
1つは「その人自身の強みをしっかり見極めましょう」という話と「その強みをしっかり伸ばすことができる支援をしていきましょう」ということだと思ったんです。

僕自身も強みにフォーカスするって、とても大事なことだなと思っています。ともすると自分ができないことって気付きやすいし、周りから指摘も受けるから、弱いところを埋めていこうとするじゃないですか。それって画一化された定常業務をやっていく上では必要だけど、ビジネスやサービスを作っていったり、お客様を成長させていくときには必ずしも大事じゃないんじゃないかと。

むしろ、カスタマーサクセスのメンバーはそれぞれが得意なことがあって、できないこともいっぱいあるけど互いにそれを知っていて、「自分はここが強いから、逆にここの部分はお願い」と言えるような環境にできたらなって思っています。その分、ひとりひとりは自分の強みを総動員してお客様の伴走をする。これを「才能開花」のサイカとして、それこそ会社の存在意義レベルから応援できる。こんなに素晴らしいことはないと思うし、そういう組織にしていきたいなと思っています。

高橋 歩:Chief Customer Success Officer
高橋 歩:Chief Customer Success Officer

カスタマーサクセスとして、ともにお客様を成功に導いていきましょう!

高橋:

そして、いよいよ採用のことも本格的に考えなくちゃならない。今年はカスタマーサクセスディビジョンがもっと大きくなっていきたいという人員計画の話もあるし、多くの方からサイカのカスタマーサクセスでチャレンジングな仕事をしたいと興味を持ってもらえるように、しっかり実績を作りポテンシャルを示していきたいなと。サイカには、このフェーズだからできる楽しいことが山盛りありますからね。

最後にもう一つ。カスタマーサクセスって、まだまだ認知も広がっていないし、B2BやSaaSに取り組んでいる各社それぞれが試行錯誤している。そういった中で、会社の枠を超えたカスタマーサクセスの勉強会のような企画も始めています。カスタマーサクセス業界自体も盛り上げていきたいなと。もし「私もカスタマーサクセスをやっているよ」って方がご覧になられていたら、ぜひ声をかけてほしいです。

現在、サイカでは、「XICA magellan」によって、お客様のマーケティング課題に寄り添いつつ、導入後の理想的なマーケティング体制の構築をするカスタマーサクセス担当を募集しております。

募集要項を見る

生まれながらに縁があった“統計”を相棒に、世の中を良くしていく。

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今回のインタビューは、統計専門チームの相関。以前は革職人だった彼が、現在は統計の専門家になるべく現場と統計の橋渡し役をしながら自らのスキルを高めている。
そんな彼が魅了された統計。過去の経験と共にこれから目指すべき道を聞いた。

生まれながらに縁があった“統計”を相棒に、世の中を良くしていく。-01

ゼネラリストからスペシャリストへ

下城 可奈

現在の業務内容をおしえてください。


相関 集

入社後1年弱は営業とカスタマーサクセス(以下:CS)をやっていたのですが、その後、統計を専門に扱うチームに移りました。データ分析は「エンジニアリング」「アカデミック」「ビジネス」の3つの視点を持つことが大切で、私はそのうちのビジネスの部分を担当しています。具体的には、現場(営業・CS)の要望を反映させたり、統計をビジネスに活かすためのコミュニケーションを取ったりしています。

下城 可奈

業務の中で難しいところは多々あると思うのですが強いて言うとこのあたりというのはありますか?


相関 集

統計で使用されている言葉が普段使用している言葉と全く違うところですかね(笑)部署内で話していることも難しいのでそこに馴染むのも大変でしたし、それを現場の皆さんに分かりやすくお伝えすることはもっと難しいです。

下城 可奈

もともと統計に関する知識はあったんですか?


相関 集

2016年にサイカにジョインしましたが、本格的に統計を学び始めたのは入社してからだったので、知らなかったですね。入社当初は営業をやっていたので、自分が意味を知らないものをお客様にお伝えすることが嫌で一生懸命勉強しました。そもそもパス解析(XICA magellanで用いている分析手法)がなんなのかというところから始まりましたね。

下城 可奈

統計に興味があったんですか?


相関 集

学生時代は社会科学部で基本的に何でも学べたのですが統計よりは商学とか心理学とか経済学を学んでました。ただ、そんななかでも線形計画法というもので、例えば営業担当がお客様先を訪問する際にどのルートで行けば一番効率的なのかを考えるような学問で。文系学部だったので入門レベルしかやってませんでしたがとてもワクワクしたのを覚えています。

下城 可奈

営業から分析チームに移っていますが、希望されていたんですか?


相関 集

他のメンバーがそれぞれ強みを持っているなかで、自分が強みを発揮できるところってどこだろうと考えたんです。そのときに浮かんだのが統計だったんですよね。そこから本格的に統計を勉強し始めました。

下城 可奈

それって営業と比べて、どんなところが面白いと感じたんですか?


相関 集

土台づくりをできるところですね。サイカは統計が土台となっているので、それが確かなものであればあるほど、上に乗る提案や仮説が良いものになっていく。その基礎の部分をしっかりつくり上げることで、営業やCSのメンバーの提案の質が向上したり、会社として良い方向に進めるんじゃないかと思いました。

下城 可奈

今までのお話を聞いていると、全体を俯瞰した時に足りない部分を埋める役回りが多い印象を受けたのですが、昔からなんですか?


相関 集

それは昔からかもしれないです。今までも割とそのほうが多かったです。例えばある会社でインターンをした際には会計担当がいなかったので、会計をやってみたり、学生時代に先輩が立ち上げたカフェで働いているときはマーケティング担当がいなかったのでマーケティングをやってみたりとかしていましたね。それまでに無いものをやることが好きですね。

下城 可奈

そういう方ってゼネラリストになりそうですが、今回スペシャリストの方向に舵をきってますよね。


相関 集

それは統計に惹かれてしまったからですね。そもそも自分の名前が「相関 集」なので生まれながらにして統計とは縁があったのかなと思う節はあって(笑)なので今後は統計で身を立てて行きたいと考えていて、本気で取り組んでいますね。

下城 可奈

確かに、私も入社後相関さんの名前を見て、「すごい名前だな」と思いました(笑)


相関 集

そうですよね。本当に営業の時には話題に困らなかったですよ(笑)

生まれながらに縁があった“統計”を相棒に、世の中を良くしていく。-02

革職人からの転身

下城 可奈

今後は統計のスペシャリストを目指していくということですが、これまでの人生を振り返ったときに、大きなターニングポイントってありますか?


相関 集

どちらかと言うと悲しい転換点かもしれないですが、弊社の平尾と同じような経験をしています。平尾はお父様が勤務されていた会社が倒産ということでしたが、私の父も不況のあおりを受けてリストラにあったんです。父もつらかったと思うのですが、私も何とも言えなく悲しくなることがありまして。やるせなさと複雑な感情が入り混じってよく父と喧嘩になったりしていたんですよね。でも根本原因は父ではなく不況だと考え、そもそもなんでこんな不況になるんだと疑問を持ち始め、それがきっかけでかなり勉強したんですよね。

下城 可奈

そのベクトルが勉強に向いたのはなんでだったんですか?


相関 集

それはまさに父の影響で、父がそんなに学歴が良いほうでは無かったんです。当時中学生だった私は短絡的ですが、学歴もリストラの一因なのではないかと考えたんです。それで、自分はそうならないようにと勉強することにしました。学歴で困ることも減ると思いましたし、かつ不況の原因も分かれば一石二鳥だと思って相当勉強しました。

下城 可奈

もともと勉強は好きだったんですか?


相関 集

勉強は好きでしたね。なので苦ではなかったのですが、いままでは良い大学に行こうという観点ではなかったので、きちんと目標をもって勉強をするようになったきっかけでしたね。

下城 可奈

大学時代はどんな学生だったんですか?


相関 集

大学時代は10° barというバーで働いていました。先輩に紹介されて、働く前からそのバーには一人で通っていたのですが、ある時お店の方に「僕バーテンダーになりたいんですよね」と話していたら働くことになって(笑)2年半くらい働いたのですがそこでもいろいろ学びました。弊社の衣川さんとはそこで出逢いました。

下城 可奈

そうなんですね。どんなバーだったんですか?


相関 集

コンセプトが「人と人がここで出会うことで人生が10°変わるバー」だったんですが、人をすごく大切にしていたんですね。そこに集まる人たちは、とても良い方ばかりでした。ただ、如何せんあまり儲かっていなくって(笑)こんなに良いコンセプトもあって来ている人たちも幸せそうなのになんで儲からないんだろう。こんなに素敵な場所がこのままでは潰れてしまうと思って、いろいろと試行錯誤しました。

下城 可奈

たとえばどんなことをされたんですか?


相関 集

それまでまったく飲食系はやったことがなかったので周りの人に聞くところから始めましたね。周囲にあるバーの方に相談したり、ひたすら本を読んだりもしました。飲食店の本からビジネス本までいろんな本を読み漁るなかで、実践に活かせるそうなことは実践していました。ほんと手探りでしたね。

下城 可奈

手探りで運営していく中で一番難しかったところはどこでしたか?


相関 集

自分が好きなお客さまだけ来ていれば売り上げが上がるわけではないところですかね。お店のためにするにはそれ以外のお客さまを取り込むことも大事でしたし、常連のお客さまの思考を変えていく必要性があったりもしたので、そういった部分は非常に悩みましたね。

下城 可奈

なぜ思考を変える必要があったんですか?


相関 集

せっかくなので統計的な観点からお話しますね(笑)その当時の理想的なお客さまの人物像、いわゆるペルソナは、お店に来ていただいて色々な方々とコミュニケーションを取りつつ、ある程度注文をしてくれる方だったんですね。

下城 可奈

逆にあまり理想的でないお客様のペルソナはどんな感じだったのですか?


相関 集

一杯だけ頼んで長時間いらっしゃって、なおかつ内輪でしか話さないといった方ですかね。そういったお客さまには共通点がありました。安い価格帯のメニューしか頼まないという共通点です。

下城 可奈

それは面白いですね。


相関 集

中価格帯以上のメニューを注文してくださるお客さまは、新しく知り合ったお客さまともコミュニケーションを取ってくれたり、理想的な動きをしてくれる方が多かったんです。そこで安い価格帯のメニューをなくしてみたんです。そうすれば理想的なお客さまが増えるのではないかと。実際にすべての価格を一新してみたところ、中価格帯以上の方々が増えたんですね。それによって、お客さまのコミュニケーションの仕方もずいぶん変化して、割と色々なところで会話が生まれ、お客さま同士で仲良くなっていただけるようになってきたんですよね。

下城 可奈

そうなると低価格層のお客様から何かしらの意見があがらなかったんですか?


相関 集

低価格帯のものを月替わりで出すなどの仕組みを作って、全面廃止はしないようにしました。そこで残ったお客様は少なかったですが、お店としてはそこを超えるだけのお客さまがいらっしゃってくださったので、それによる打撃はなかったですね。その後は中価格帯以上のお客さまがほとんどだったので、より同じような層の方々が集まるようになり、お店としての一体感も強くなりましたね。お店としては良い方向に向かったと思います。

下城 可奈

その経験から学んだことはなんですか?


相関 集

意外とできないことはあまり無いんだなということですね。当初は人見知りだったのですが店長をやる頃にはそんなことなくなってましたし、飲食店の経営もやったことがなかったですが、きちんと学ぶ努力とやり遂げる力を発揮すれば、人間できないことは無いんだなと思いました。今でも、やったことないからやらないというのはものすごい機会損失だなと思いますね。

下城 可奈

すごく素敵な経験だったんですね。当時は、社会人になって何をしようと考えてらっしゃったんですか?


相関 集

その時はコンサルタントになろうと思っていました。

下城 可奈

それは経営コンサルタントですか?


相関 集

そうですね。中学校の時に通っていた塾の先生がコンサルタントになったので、彼へ憧れたということもありましたが、バーを経営してみて、経営って面白いなと思ったことが大きかったですね。外資系コンサルとして世界を飛び回ってみたいなと。あと、私の祖父が商売人で、亡くなるまでにかなり家業を繁栄をさせたんです。彼の伝説みたいなものも親戚内では語り継がれていたりして、そう意味ではずっと経営とかに興味はあったんだと思います。

下城 可奈

そういう想いを胸に、実際にはどういったことをされていたんですか?


相関 集

大学卒業後は起業しようと思ってまして。自分で経営するほうを選んだんですね。色々アイデアを考えたのですが大きな賭けに出れなくて、WEBサイトをつくってアフェリエイトで儲けるということをやっていました。運営フェイズになった時、作業にとてつもない飽きを感じた時があったんです。でも振り返ってみるとWEBサイト構築をしているときはとても楽しかったと思いました。そこから、自分はものづくりが好きなんだと気付いたんです。ものづくりってなんだろうと考えていたところ、地元に革職人が多かったので、これだ!と。昔から通学路でそういう方々を見かけてかっこいいなと思ってたなぁ~と気付きまして。

下城 可奈

潜在的に職人に対する憧れがあったんですね。そこからどうやって職人になったんですか?


相関 集

最初はハローワークとか行ったのですが、求人がなかなか無くて。知人の紹介で紳士ベルト専門の革職人になりました。

下城 可奈

職人になって修行をすることになると思うのですがしんどくなかったんですか?


相関 集

肉体労働なところがあったのでやっぱりしんどかったですね。あとは丁寧に作るよりも数を作らなければいけかったのですが、原価も高いのでできるだけミスをせず沢山作るというのをスピーディーにやらないといけないんですよね。なので先輩に怒られながら必死に頑張りましたね。

下城 可奈

ものづくりができる仕事は楽しかったですか?


相関 集

そうですね。とても楽しかったです。ただ、その当時あまり景気も良くなくて、このまま自分がいたら業務のみならず金銭的にもご迷惑をかけることになるなと思うようになっていて、好きな仕事ではあったのですが泣く泣く辞めることにしました。

下城 可奈

そのときはサイカに入社することが決まっていたんですか?


相関 集

決まってなかったです。実は別の会社から入社しないかという話があってそちらに行こうと思っていた矢先に衣川さんから連絡がありまして。飲みに行ってサイカを紹介いただいて、次の日にはサイカの面接を受けて通過したので入社となりました。

下城 可奈

面接を受けたときにここだと確信したポイントはどこだったんですか?


相関 集

プロダクトオーナーの岩澤さんとお話したことですね。面接の中で質問に対して上手く答えられないでいたら、岩澤さんから私が話しやすい質問をしてくださったんです。相手がベストパフォーマンスを出せていない状況の中で、相手の良さを引き出すアプローチをしていただいたことにすごく感動しまして。こういう人がいる会社なら人のことを大切にしてくれるのではないかと思い入社を決めました。

下城 可奈

そういうのってすごく大事ですよね。サイカに入社して何か変わりましたか?


相関 集

そもそも会社勤めを始めたというのがまずあります(笑)あと、それまでは勉強が好きだったもののなかなか時間を割けていなかったのですが、サイカに入ってからは統計を勉強しつつ実務に活かすことができるので私にとってはかなり理想的な環境で仕事ができています。「学術はビジネスに活かすべきである」という想いもあるのでそれが体現できるようになっているのは非常に大きいですね。

下城 可奈

「学術はビジネスに活かすべきである」と思ったのはいつ頃ですか?


相関 集

10° barの時ですかね。大学で勉強したことで経営に活かされたものがいくつかあって。それがすごく面白かったんですね。そこで学んだことを実務で活かすということがとても大切だなと気づいた感じですかね。

下城 可奈

いま実務に活かせていることってあります?


相関 集

いまはまだ難しいですね~(笑)統計に関してはまだ確かなものをきちんと知っていると言えるレベルではないので、もっと成長すればそう言えるようになるんだろうなと思っています。

生まれながらに縁があった“統計”を相棒に、世の中を良くしていく。-03

ずっと一緒にいたいと思う

下城 可奈

統計のスペシャリストとして、今後の働き方のイメージとかありますか?


相関 集

サイカでは今の仕事をもっと極めていきたいですね。そうすることで、より確かなものを出していきたいです。その先で言うと、もっとビジネスと統計を結びつけるような動きをしていきたいなと思っています。

下城 可奈

統計からは離れないですか?


相関 集

統計からは離れないですね。今考えると、バーのときも統計があったらもっと変わったんだろうなと思うところもありますし、今後はもっと統計に寄り添って行きたいと思っています。統計は相棒としてとても心強いですし、これだけ信じられるものは他にないのでずっと一緒にいたいなと思います。

下城 可奈

相関さんとして「才能開花」という言葉自体をどのようにとらえていますか?


相関 集

割と傲慢な言葉だと思っています。開花していない人がいるということに対する反語かなと思ったりするので。ただ、自分が観たい世界に一緒に向かって行くという意味も持っていると思っています。みんなが才能開花しているのは良い世の中だということを確信している言葉だと思うんですね。それを描くために一緒に頑張っていこうという。なので私からすると傲慢かつポジティブな言葉ですね。

下城 可奈

相関さんの「才能開花」とは?


相関 集

名刺の裏には「頭と体と良心フル稼働」と書いてあります。それは今も変わらなくて、私自身がフル稼働の状態で統計を使って世の中を良くしていくことができたときが才能開花だと思っています。頭と体をしっかり使って、それにプラス良心。統計って使い方によっては、いい加減なアウトプットになってしまうので、そこは良心を軸に、誠実なものを出し続けていく。そういう状態が才能開花かなと思っています。

下城 可奈

こんなに「統計」という言葉が多く出たインタビューは初めてだったと思います!ありがとうございました!

インタビューを受けてみて

相関 集

当たり前なことではありますが、自分が今まで関わってきたいろいろなもので出来ていることが確認できました。今回のインタビューは話していて楽しかったので、もし次回機会があったとしたら、同じように楽しくふり返れるようにするために一生懸命やっていこうと思います。

人と機械が共存する未来をつくる

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今回のインタビューは統計専門チームの祖山。社内でも統計に関して一番詳しく、統計チームのリーダー的役割を担っている。
それぞれの転換点で導かれるようにたどり着いた統計・分析の世界。彼が目指す「価値ある未来」とは?熱い想いがそこにはあった。

人と機械が共存する未来をつくる-01

Python、そして統計との出逢い

下城 可奈

いまの業務内容を教えてください


祖山寿雄

色々ありますが、メインは統計専門のチームでmagellanの分析に関わるもの全般を担当しています。どんなロジックでどんなアルゴリズムでやるのか設計したり、検証から実装まで全て担当しています。営業に同行することも稀にありますし、分析部分以外の開発を行うこともあります。

下城 可奈

祖山さんが営業同行に行くときはどんな状況の時ですか?


祖山寿雄

お客様の中でも分析に関して専門部門がある等、リテラシーが高い方がいらっしゃるのでその時には私が同行してロジックから説明したりしますね。

下城 可奈

専門家とお話するのとそうでない方とお話するのでは伝え方等がかなり異なると思うのですが、その部分で気を付けていることとかありますか?


祖山寿雄

バランスが難しいですね。分析とか統計学として間違ったことを言ってはいけないというのはあるので、正しいことを言わないといけないのですが、とはいえ分かりやすくしなければならないという相反するものの狭間にいる感じですね。

下城 可奈

それはどういうことですか?


祖山寿雄

ざっくりと分かりやすくし過ぎると正確でなくなってしまうことも多々あるのでそこのバランスが難しいですね。

下城 可奈

いまの業務の中でもっと良くしたいなと思う部分はどこですか?


祖山寿雄

組織化をしっかり行うことですかね。
いままで統計専門のチームの定義が非常に曖昧だったので、その部分を明確化したうえで組織としてどう動くかを定めていかなければいけないなと思っています。

下城 可奈

いまでは統計専門の祖山さんですが、統計に触れるきっかけはどこだったんですか?


祖山寿雄

今の仕事と絡んでくるのは大学3年になるときですね。歴史や政治や社会学が好きで大学は社会科学のところに行ったのですが、大学3年になるタイミングでどこのゼミに入るかを選ぶことになるんですね。その当時は哲学をやろうと思ってて、哲学系のゼミの見学に行ったんです。

下城 可奈

哲学系志望だったとは驚きです。


祖山寿雄

そうんなんですよね。でも実際に見学に行ったら、あまり面白そうじゃなかったんです(笑)その頃にはほとんどのゼミの見学も終わっていて。仕方なく各ゼミの内容をまとめた冊子を見ていたら情報系のゼミがあって。とりあえずここでいいやと(笑)

下城 可奈

もともと情報系のことには興味があったんですか?


祖山寿雄

もともとPC触るのが好きだったりして、中3の頃はお小遣いでPCを自作したりしていたんですよ。小さいころから好きだったので。

下城 可奈

小さいころから好きだったということは身近にそういったものがあったんですか?


祖山寿雄

私の父がハードウェア保守の仕事をしていた関係で、小学生くらいの時から触れる機会が多かったんだと思います。PCはありましたし。
Windows95とか、Windows3.1もありました。

下城 可奈

その頃からIT技術に触れていたんですか?


祖山寿雄

その頃は技術とまでは言えないですね。普通にインターネットをやったりとかでした。強いて言えば、中学・高校からHPをつくったりはしていましたね。

下城 可奈

どうしてつくろうと思ったんですか?


祖山寿雄

当時はみんなそうだったと思うのですが、ゲームが好きで、インターネットでゲームの攻略サイトとか見ていたんですよね。そういうのを見ているうちに自分でもつくってみようかなと思いまして。

下城 可奈

その時はまだテキストサイトの時代ですよね?


祖山寿雄

そうですね。素でHTMLとかCSSを書く時代ですね。

下城 可奈

それとは別にプログラミングはやっていたんですか?


祖山寿雄

大学するまではやってなかったです。プログラミングに出逢ったのがさっき言っていた情報系のゼミだったんですよね。そのゼミの教授がPythonのコミュニティに入ってる人で、そこから本格的にプログラミングを始めました。

下城 可奈

Pythonで何をしていたんですか?


祖山寿雄

Pythonでデータサイエンスっぽいことをやっていましたね。おそらくこの時の経験がいまに繋がっているんだと思います。その時からずっとPythonには触れていて、社会人になってからも、業務で使わずともプライベートでやっていたりしました。

下城 可奈

Pythonとの出会いはそこだったんですね。統計とはどこで出会ったんですか?


祖山寿雄

大学に入って研究するところからですね。アンケートとか心理学実験に必要なくらいのレベルだったので、今くらい本格的に始めたのは社会人になってからです。ただ、大学の頃もPythonでデータサイエンス的なことはしていたので勉強会には行っていました。

下城 可奈

社会人になってからは触れる機会が多くなったんですか?


祖山寿雄

多くなったとは言えないですね。徐々に増えていっていま専門になっているイメージです。

人と機械が共存する未来をつくる-02

必死に頑張れば必ず何か得ることが出来るはず

下城 可奈

最初は違う分野だったんですか?


祖山寿雄

新卒で入社した会社はISPの会社で、業界の中でも古い会社でした。古くて大きい会社だったので、窮屈ではないけど面倒な過程がいっぱいあり、あんまり新人が意見できる空気感ではなかったんですね。基本的にインフラ系の仕事でコードを書くこともなかったので、コードを書きたいという想いはずっとありました。そんな時期に今思うと良かったなという経験もあって。

下城 可奈

どんな経験ですか?


祖山寿雄

社会人1年目の時に自分で勉強会を開いたんですよね。

下城 可奈

社会人1年目!どんな経緯だったんですか?


祖山寿雄

私が修士の時にネットワーク分析というものをやっていて、ソーシャルネットワークのような、人と人との繋がりの構造を分析するものなのですが、入社してすぐの時にオライリーからその分野の本が出ることになって、じゃあそれに関する勉強会をやってみようかと。

下城 可奈

どんな感じで進めたんですか?


祖山寿雄

当時はconnpassは当時まだそんなメジャーじゃなくて、勉強会告知サイトっていったらATNDぐらいだったので、そこで告知してみたら10名弱集まりまして。人が集まるったのでやろうと。オライリーから出版された本が7章くらいあったので、7回くらいの続きものとして勉強会を開催しました。

下城 可奈

実際の反響はどうでしたか?


祖山寿雄

10名弱だったのであれですが、そこからコミュニティに入れたのは大きかったですね。そこからずっと仲の良い人もいますし、貴重な人脈を築けたと思っています。

下城 可奈

実際にそこから自分の中に起きた変化とかありましたか?


祖山寿雄

それまでは自分から積極的に何かを発信するタイプではなかったのですが、この一件で積極的に自分から発信するようになりました。

下城 可奈

具体的にはどういったことですか?


祖山寿雄

それまでは与えられた役割をこなすという感じだったのですが、その勉強会の時は仲間を集めて「あなたはここ担当でやってください」等の業務振り分けをしたりしながら、周りの人を巻き込んでいくことができて、それは今も変わらないので、この経験は自分にとって大きかったなと思っています。

下城 可奈

たしかに私から見た祖山さんの印象は人を巻き込むことが上手いエンジニアさんなので、いまの姿はこの時がベースになっているんですね。


祖山寿雄

そうかもしれないですね。ここで一歩踏み出したのは大きかったですね。

下城 可奈

今後もそういう機会があればやりたいなと思いますか?


祖山寿雄

そうですね。ここ2~3年やっていなかったのでやらないとなと思っています。直近でヒカラボありますが(笑)それ以外にも色々とやりたいですね。

下城 可奈

当時は勉強会がメインだったと思いますが、その部分のスキルを日常の業務に活かしたいなという想いはあったんですか?


祖山寿雄

ありましたね。1社目はプログラミングに触れる機会がほとんどなかったので、そもそもプログラミングをしたいという想いは消えなくて。色々と悩んだのですが、そこから思い切った決断をしまして。一気にWeb系エンジニアに転向しました。

下城 可奈

それはかなりの転機ですね。


祖山寿雄

そうですね。インフラ系からWeb系にいったのも大きかったですが、会社規模も一気に変わりまして。

下城 可奈

どれくらい変わったんですか?


祖山寿雄

1社目は全体で600名ほどの会社で、一つの部署だけでも30名くらいいたのですが、そこから転職した会社は、全体で10名に満たず、エンジニアも私が4人目みたいなベンチャー企業だったんです(笑)

下城 可奈

それはまた大きな変化ですね。600名から10名規模のベンチャーへの転職を決断できた理由は何だったんですか?


祖山寿雄

当時は基本ベンチャー企業に行こうと考えていました。大きな組織ではなく小さな組織で自分の意志をしっかりもって仕事したかったのかもしれません。とりあえず飛び込めばどうにかなるだろうと思っていましたし、そこで必死に頑張れば必ず何か得ることが出来るはずだと思っていました。

下城 可奈

実際に入社してみてどうでしたか?


祖山寿雄

想像以上のギャップがたくさんありましたね(笑)会社としてはほぼ個人での開発からチームになっていく過渡期であり、開発体制も全然出来上がっていなかったので、誰が何やっているのかも分からない状況でした。

下城 可奈

やりづらくなかったんですか?


祖山寿雄

やりづらかったので自発的に動いて変えていくことにしました。それができると思ってベンチャー企業に入りましたし、そこに迷いはなかったです。

下城 可奈

そこでは統計や分析のことをやっていたんですか?


祖山寿雄

そこでというよりは、勉強会に行くことを続けていたので、そちらですね。
Pythonきっかけで勉強会に行き始めて定期的に参加していたのですが、気付いたら徐々に分析のほうに入っていってました。今考えると、その場その場で好きなほうを選んでいたら統計・分析にたどり着いていたといった感じでした。

人と機械が共存する未来をつくる-03

人の行動を変えていくことが本当に重要

下城 可奈

そういった選択をしてきてサイカにたどり着いたんですか?


祖山寿雄

そもそもPythonで開発している会社を探していて、なおかつWebアプリとして統計ツールを売っているのが特殊だなと思って興味がわきました。面白そうだなと。それに統計や分析を生業にしているので、統計分析が出来てかつその価値がきちんと浸透しているところだと思って入社を決めました。

下城 可奈

今後こういうことしていきたいなというイメージはありますか?


祖山寿雄

社内的な話で言うと、ちゃんと組織としてやることをしっかり定義してつくっていくことですね。未来を見据えたR&Dが出来るようにして行ければと思っています。会社の価値ってやっぱり未来にあると思うので。

下城 可奈

もう少し先のイメージもあるんですか?


祖山寿雄

先というか、もう少し大きいところで言うと、当面はデータ分析をやっていくと思っているんですが、いま「データサイエンス」が流行っている中で、個人的には違和感があるんですよ。たとえば、機械学習的アプローチについて言えば、人を介さずに機械だけで構築したもので事足りるケースが大半になる時代はすぐ来ると思いますし、そうなった時にそれしかできない方々の大部分は仕事がなくなると思っています。そんな時代に、意味のある分析をしていかないといけないと思っているんです。

下城 可奈

意味のある分析とはどういうことですか?


祖山寿雄

データを入れさえすれば結果が出ますという分析も大事ですが、いまのマーケティングの文脈で言うとそのアプローチには限界があります。背後の人間の状況をしっかり理解したうえでないと難しいんです。人の行動や社会の変化の背後に潜むメカニズムを理解した上で、それを数式やプログラムに落とし込んでいく能力がないと多くのデータサイエンティスト達は生き残れないと思うんです。人と機械が共存する未来をつくる上でもそこの価値観を大事にしたいと思っています。

下城 可奈

サイカもでも最終的な人の決断を大事にしていますがそういった部分には共感しますか?


祖山寿雄

そうですね。最終的には人なので、人の行動を変えていくことが本当に重要だと思っています。今後はそういう世界になる、というか、ならないといけないと思いますね。

下城 可奈

祖山さんとして才能開花という言葉をどう捉えていますか?


祖山寿雄

非連続な成長という言葉に近いと思っています。私が目標設定をするときに、「コンピュータサイエンス強くなります」と言ってもあまり才能開花感はないと思うんです。それが全然違う分野で伸ばせたことがあれば才能開花になるのかなと。例えば「このデータを可視化出来たらいいね」いう話をしていて、そのデザインを私がやったら周りは驚くと思うし、こういうことが才能開花だと思うんですね。人間ほっとけば成長すると思うので自分の領域ではなく誰もが予想もしないような領域で価値発揮した時が才能開花だと思っています。

下城 可奈

では現時点での祖山さんの才能開花はなんですか?


祖山寿雄

いまは「境界を越える」ですね。これには色んな意味を込めていて、スキルの境界や、気持ちの境界、人と人との境界や、社内と社外の境界。他にも、分析を全く分からない人がある程度出来るようになって余力を持てればそれも境界を越えていることになると思っていて。要は自ら壁をつくらずに興味のあることには食いついていくことが大事だと思っているんですですね。なので私自身、色々な境界を越えて世の中の人を幸せにできれば、それが才能開花だと思っています。

インタビューを受けてみて

祖山寿雄

普段無軌道、無計画に生きてるつもりだったんですが、こうして見ると人生の要所要所で寄り道と軌道修正を繰り返しつつ、あるべき姿に収束していってる感がありますね。もうすぐ30なんでそろそろ腰を据えてという考えもありつつ、しばらくは今の路線を続けようかなと思っています。とか言って突然気が変わってぜんぜん違うことやり出すかも知れませんが(笑)

どこにいようが何をしていようがずっと「人」に寄り添っていきたい

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今回のインタビューは、人事や広報を担当する下城。オフィスで見かけると、常に誰かとコミュニケーションを取っている。「 “人”を軸に仕事をしたい」という彼女らしい働き方である。
営業・秘書・人事…さまざまな経験をした彼女がいま想うこと、そしてこれからについて話を聞いた。

どこにいようが何をしていようがずっと「人」に寄り添っていきたい-01

だれかのために生きるのも悪くない

山田 裕嗣

いまの業務内容を教えてください


下城 可奈

メインは人事の採用業務です。それとは別に広報担当として業務をしつつ、それらに関連するあらゆる物事の対応をしています。

山田 裕嗣

これまでのキャリアはどんなキャリアだったんですか?


下城 可奈

社会人になってからは、販売、営業、秘書、そして、いまのキャリアにも繋がる人材紹介の営業とキャリアアドバイザーを経験して人事をやっていました。

山田 裕嗣

さまざまなキャリアチェンジをするなかで、いまの業務の基盤となったのはどこですか?


下城 可奈

人材紹介の経験ですね。それ以前から人事には興味があったのですが、その想いが具体化したのはその時でした。営業とキャリアアドバイザーを経験し、さまざまな候補者と触れていくなかで、「この人たちが入社後どんな壁にぶち当たってどう成長していくのかを近くで見つつ支えられる存在になりたい」という想いがより強くなったんです。

山田 裕嗣

そう思うようになったきっかけ、人生の転換点はどこにありますか?


下城 可奈

大学受験に失敗したときですね。自分の基本スタンスが確立されたのがこの時期で。中学くらいまでは親が用意してくれた道に従うことが自然だったし正しいと思っていたんです。でも、高校くらいからそういう生き方が間違いだったんじゃないかと思ったりして…。まさに反抗期真っ只中で好き勝手やっていたので、当たり前のように大学受験にも失敗して、お先真っ暗になって途方に暮れて。

山田 裕嗣

インパクトとしてはかなり大きかったと思うのですが、それが転換点になったのはなぜですか?


下城 可奈

好き勝手やってきた結果、受験に失敗して、家中が暗い雰囲気になって。こんなことは初めてで。これって私が望んでたことなのかなと。このままだと私は生きている価値がないのかもしれないとまで思っていて、そこから自分の人生というものについて初めてリアルに考えたんですよね。

山田 裕嗣

その経験から変わったことってどんなことですか?


下城 可奈

思考が変わりました。当時じっくり考えて出した結論が「誰かのために生きるのも悪くない」ということ。そう思えてからは肩の荷がおりました。

山田 裕嗣

それはどうして?


下城 可奈

私が親の提示した道を歩んできたのは、親に喜んでもらいたかったと気付いたからなんです。それが何故だろうと振り返ってみたら、幼いころからずっと、自分よりも家族のために力を発揮することが多かったんですよね。

山田 裕嗣

そう思えてからは何か行動が変わったんですか?


下城 可奈

大学以外の道も模索していたのですが、親が喜ぶのであれば浪人してでも大学に行こうという決心ができました。

山田 裕嗣

自分の幸せがないがしろになりそうだけど、そこはどうだったんですか?


下城 可奈

そのとき腹落ちしたのが、「周りがHappyでいることが、自分のHappyに繋がる」ということだったんです。私は自分含め、自分の周りの環境が明るい状態が好きなんだなと。そうなると、周りの人達がHappyであることが絶対条件なので、その構図ができあがったときにものすごくスッキリしました。

山田 裕嗣

そこでちゃんと腹落ちできたんですね。実際に大学に入学してからはどんな大学生だったんですか?


下城 可奈

みんなでできる楽しいことを見つけては企画する係でしたね。飲み会やボーリング大会を頻繁に企画していました。

山田 裕嗣

そこでもやっぱり良い環境づくりを自主的にやっていたんですね(笑)


下城 可奈

そうですね(笑)やっぱりそこに落ち着きましたね。

どこにいようが何をしていようがずっと「人」に寄り添っていきたい-02

幼いころからずっと変わらない父への憧れ

山田 裕嗣

その当時って、理想の社会人像みたいなのってあったんですか?


下城 可奈

最低でも定年まで仕事が出来る女性が理想像でした。

山田 裕嗣

なんでそう思っていたんですか?


下城 可奈

父が経営者で母が専業主婦なんですけど、昔からずっと憧れていたのは父のほうだったんです。母のことは尊敬していたし大好きですけど、私は母のようにはなれないなと。外に出るほうが性に合っているので。

山田 裕嗣

それはいまだに変わってないの?


下城 可奈

変わってないですね。そもそも父とは性格がすごく似ていたのもあったし、娘の私が言うのもなんですが、昔からとにかくカッコ良くて。いまも変わらない父のカッコ良さって私の求めるものだったりするんです。なのでそこに近づきたいという憧れはいまだにありますね。

山田 裕嗣

父親への憧れってすてきですね。他に人生に影響を与えたエピソードはありますか?


下城 可奈

人材系の会社に転職したことですね。それまでと大きく異なったのが自分のフィールドではない世界に飛び込んだので、この経験はとても大きかったです。

山田 裕嗣

それはどういう意味で?


下城 可奈

それまでは自分が好きだったり得意な分野での仕事が多かったのですが、人材は違ったんです。必要な知識や経験が圧倒的に不足していて、即戦力として使えたスキルはテレアポのスキルぐらい(笑)自分が持っている情報量も圧倒的に少なくて、最初の1年くらいは売り上げも全然上がらなかったんですよね。

山田 裕嗣

その時の自分を客観的に見るとどう思います?


下城 可奈

ものすごく面倒臭くて、扱いづらい奴(笑)周囲のみなさんはいろいろとアドバイスをくれてたんですけど、当時の私はプライドだけは異常に高くて、そういった意見に耳を傾けようとしなかった。自分ができないということを認めたくなかったんですよね。

山田 裕嗣

それっていまだから分かる姿じゃないですか。自分ではなかなか気付けないと思うし、そんな状況で気付くことができたのはどうして?


下城 可奈

いろんな人からいろいろ言われ続けてたのはベースにあるんですけど、そのなかでも、本当に私のことを変えようとしてくれた先輩がいて。本当に色々やっていただいたのですが、結局その方がマネジメントしているチームで私は実績を出すことができていなかったんです。
そんなときにある出来事があって。

山田 裕嗣

どんな出来事があったんですか?


下城 可奈

当時仲が良かった同僚から、その先輩が私のことを心底心配してくださっていたことを聞いたんです。そこまで考えてくれる人ってなかなかいないので、本当に心に刺さって。いままで自分は何をしてきたんだろう、自分のことしか考えられてなかったなと。でも当時はチームも変わる時期で、どうやったら恩返しできるんだろうと。

山田 裕嗣

そこまでガラッと変わるのは難しいかなと思うんですが、どうしてできたと思いますか?


下城 可奈

幼いころから、とにかく周りに迷惑をかけちゃダメ、周りを悲しませることはダメという想いがあったからですね。自分だけのことであればそこまで変わらなかったと思うんですけど、それが自分以外の誰かに向いたときにようやく理解できたんです。

山田 裕嗣

そこから意識してやり始めたことはあるんですか??


下城 可奈

自分ができないことを認めることですね。ものすごく悔しいことだったけど、それを認めることによって意識も行動も変わったし、何よりラクになりました。それまで張りつめていたものが徐々にほどけていって、周りも許容してくれるようになって。

山田 裕嗣

そうやって自分を見直して、最終的に実績は上がったんですか?


下城 可奈

上がりました。新しいチームになってから月間MVPも獲れたりして。
そのときの売り上げの大部分がその先輩から引き継いだ案件だったので嬉しかったのを覚えています。少しだけだけどようやくその先輩や組織に恩返しができたなと少し安心した瞬間でした。

山田 裕嗣

この経験って仕事だけでなく、人と接するうえでのスタンスも変わりそうですね。


下城 可奈

そうですね。人と接するうえで自分が見えている部分は本当に一部でしかないんだと思うようになりました。仕事に対しても人に対しても、いろいろなことを偏見無く聞き入れることが大切なんだなという意識になりましたね。

サイカに入社して変わったスタンス

山田 裕嗣

そういったスタンスになった後さらに自身が変わった出来事はあったんですか?


下城 可奈

サイカに入社したことですね。

山田 裕嗣

意外ですね。何が変わったんですか?


下城 可奈

年齢もあると思いますが、いまはメンバーや組織にどうやったら貢献できるのかを本気で考えられるようになっているんですね。正直ここまで思い入れが強くなったのは初めてです。

山田 裕嗣

それはなぜ?


下城 可奈

まずサイカにいる人が好き。本当にさまざまな個性の人が集まっているんですけど、共通して言えることは、みんな真っ直ぐで素直な人ばかりということ。どの人と話していても「いいなぁ、力になりたいなぁ」と思えるって私にとっては願ってもない環境で。しかも会社としてそれぞれの個性を尊重することを推進しているので、本当に素敵だなと。

山田 裕嗣

人の良さだけでなく会社に対しても思い入れが生まれたの?


下城 可奈

そうですね。これまでも同僚には恵まれていて、個人と向き合うこともたくさんしてきましたが、いまは会社の考えにも共感できていることが大きいですね。サイカに貢献したいなと思えています。組織単位の目線が加わりましたね。

山田 裕嗣

組織単位での目線?


下城 可奈

いままでも個人のことを考えることが多かったんですが、そこで終わりだったんです。いまは、その人も働きやすくて、周囲を巻き込んだときに良い相乗効果が生まれる環境ってどんな状態なんだろうということを考えるようになっていて、それっていままでには無い感覚だと思ってます。

山田 裕嗣

将来こうなりたいというところから逆算して頑張りたいタイプと、目の前の次のステップが面白そうだからそこを次々にこなしていくタイプと両方いるじゃないですか。それで言うと下城さんはどちらですか?


下城 可奈

私は基本的に後者なんですよね。これをやったら面白そうとかこれができたらカッコイイというものを少しづつ身につけていくタイプ。でも今回の出来事に関しては、前者の逆算パターンで、山田さんに気付かされたものなんです。

山田 裕嗣

どういうことですか(笑)?


下城 可奈

以前、個人視点か組織視点かみたいなお話をさせていただいたときに、そういう物事の見方が大切だなと思って。個人の視点もしっかり持ちつつ組織視点で物事を判断できるようになったら人事として本物だなと。そこまで行くにはまだ時間がかかると思うんですけど、いまの私には組織目線の強化が大切だなと思ったんです。

山田 裕嗣

その視点を意識した先にどうなってたいというイメージはあるんですか?


下城 可奈

個人にずっと寄り添い続けるという想いは残しつつ、人事として組織だったりを経営視点で俯瞰して見たいという想いが芽生えています。

山田 裕嗣

その俯瞰して見たいモチベーションの源泉ってなんですか?


下城 可奈

父ですね。父が見ていた世界を見てみたいです。

山田 裕嗣

自分が同じような立場になりたいって思うことはあるんですか?


下城 可奈

正直分からないですね。大学を卒業するときに父に「会社を継ごうか」と持ち掛けたこともありましたが、その時は全然深く考えていなかったし、いまそこまでの器が自分にあるかというとそうは思わないので。

山田 裕嗣

どこかでチャレンジしたいと思ってる?


下城 可奈

最終的にはできたら面白いだろうなとは思います。恵まれていることに、親戚にも起業家が多いので、いろいろ見てきていると思うし、いろんな経験もしてこれたと思っているので。

山田 裕嗣

人材系の職種に関わっていると、良くも悪くも自分を相対評価できるじゃないですか。それでまだだなと思ったの?


下城 可奈

それはありますね。いろんな人達を見てきたからこそいまの私ではできないと思います。

山田 裕嗣

それまでのステップとしていまやっていきたいことってなんですか?


下城 可奈

いまはまだ、社員と密に関わっていくところをやりたいと思っています。まだ社内のみなさんのことを全然知らないと思っているので。サイカのメンバーについて教えてくださいって言われたときに、それぞれ3時間くらいづつ語れるようになっていたいです(笑)

どこにいようが何をしていようがずっと「人」に寄り添っていきたい-03

まわりの人を幸せにしたい

山田 裕嗣

では最後に、下城さん自身が「才能開花」という言葉自体をどう捉えていますか?


下城 可奈

まず才能というものは、いままでの経験値の集合体のなかで秀でたものだと思っています。それに気付いて、そのスキルで周りの人を幸せにできたときが才能開花だと思っています。

山田 裕嗣

才能開花をそう捉えたときに、下城さんが今後増やしたい経験値ってなんですか?


下城 可奈

より多くの人と接していろいろな領域の知見を増やすことですね。人間って結局、狭い世界で生きていることが多いので、そこを広げることが大事かなと思っています。やっぱり人から受ける影響だったり人から学ぶことってものすごく多いと思うんですよね。

山田 裕嗣

やっぱり人に向かうのが下城さんらしいですね(笑)


下城 可奈

そうかもしれないですね(笑)ベースは絶対“人”ですね。どこにいようが何をしていようが人のことはずっと考えていきたいと思っています。

山田 裕嗣

では、下城さんにとっての才能開花とはなんですか?


下城 可奈

私の名刺の裏に「XICAのファンを増やす!XICAに関わる人々をHappyにする環境づくりを!」と書いているのですが、私の才能開花となると「XICA」の部分が「私」になった時かなと。「私に関わる人がHappyになる環境づくり」ができた!!と実感した時が私の才能開花だと思います。

山田 裕嗣

ありがとうございました!

インタビューを受けてみて

下城 可奈

普段は人に質問することが多いので、いざ自分事となると難しいですね(笑)あまり考えがまとまっていなかったことでも、綺麗に引き出していただいて感謝しています。「三つ子の魂百まで」という諺がありますが、根底の部分って本当に変わらないものなんだなと思いました。
今回改めて、一生「人」を軸に仕事していこう!と思えました!ありがとうございました!!

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